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贋食物誌83
日期:2018-12-08 22:44  点击:283
     83 烏賊(いか)
 
 
 しばらく前のことだが、吉村の平さんの出版記念会が浅草の松葉屋で開かれた。京町の入口あたりでタクシーを降り、懐旧の情に捉《とら》えられながら、ぶらぶら歩いていると、山本容朗に出会った。一緒に目的地に向って歩いているとき、
「ここにあった店の名前を、いまどのくらい覚えていますか」
 と、ヨウローがたずねたので、意表をつかれた。
 この質問は、よく考えると大へん面白い。
 あらためて思い出そうとすると、吉原では自分では登楼したことのない大店《おおみせ》の「角《かど》海老」と「第二山陽」しか出てこない。
 通い馴れた鳩の街でも、楼家の主人と仲良くなった「花政」しかおもい出せない。玉の井にいたっては、「玉の井の玉ちゃん」という個人の顔やそのほかは精《くわ》しくおもい出せるが、その玉ちゃんのいた店の名は記憶にない。通い詰めた新宿二丁目にしても、「赤玉」「銀河」「ヴイナス」は、吉原の大店に似たものである。ただし、そのほか一度知ったら強く印象の残る店が僅かだけある。「花のパリー」は本気でつけたのだろうが、私には「シャレがきついよ」という感じであり、「ホームラン」というのもどこかオカしいので、その二つは覚えている。もともと、張見世《はりみせ》している女たちだけを見ているので、その女と部屋に入ることになっても、店の名などは無関心であったのかもしれない。
 しかし、記憶から脱落した部分も多いにちがいない。
 ここまでは前置きなのである。丸谷才一がある雑誌に「食通知ったかぶり」というのを連載していて、今回読んだのに麻布《あざぶ》飯倉のうなぎ屋「野田岩」のことが書いてあった。味の表現はじつに難しいのだが、マルヤは古文献などを援用して上手に書いている。
 四、五年前のことだが、「風景」という小雑誌の編集会議を、この店で二年間ほど月に一度開いていた。ところが、当時のことを、ほとんど忘れている。ウナギ屋で焼き上るのを待つ長い時間には、新香を註文してそれを肴《さかな》に酒を飲んでいればいいというアイディアを、山藤章二のイラストで教わった。マルヤは、この店自慢のウナギの佃煮《つくだに》で酒をゆるゆる飲む、と書いているが、この佃煮のことが頭に出てこない。
 この丸谷才一と食べ物の話をしていると、食べ物の本の戦後三大傑作というのをマルヤが挙げた。そのうちマルヤ自身の本も入れて、四大傑作にするつもりかもしれないが、その際は私があらためて考えて判定を下したい。
 一、吉田健一『私の食物誌』
 二、邱永漢『食は広州に在り』
 三、檀一雄『檀流クッキング』
 これには、私にも異存がない。
 吉田健一さんの本で感心したのは、食べ物と人間との関係を正確に掴《つか》んでいるので、通《つう》ぶった感じを受けないところである。「東京の握り鮨《ずし》」という項目から引用させてもらう。
『こはだは鮨の種《たね》の圧巻ではないにしてもこはだが旨い鮨屋の鮨は旨い。これはこはだではないが、その昔まだ東京に掘り割が縦横に切られていた頃銀座の三原橋の傍に新富という鮨屋があって、これが鮪《まぐろ》の赤い所と烏賊しか握らなかった。それも本ものの大握りの三口でも食べ切れない型の鮨で、その鮪の鮨や烏賊の鮨が一応こっちの鮨なるものの観念をなしていたことを思い出す。このこはだ、鮪、烏賊という辺りが江戸前の鮨の種というものではないかという気がして通人はひらめの縁側、生海老その他のことを言っても通人の味覚などというのが当てになるものではない』
 これだけでは、吉田さんの論旨も私の言いたいことも十分には伝わらない。それは次回で。
 

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