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贋食物誌94
日期:2018-12-08 22:53  点击:411
     94 鶏(にわとり)㈪
 
 
 体力のあるころは、運転しているときには、車を停めてちょっと一服するという気分になれない。便所に行くのも難しくて、ギリギリまで我慢してしまう。「慣性の法則」というのがあって、それに似たものが速度感が入りこんでいる肉体に作用するためである。もっとも、これはシロウトの勝手な考え方である。
 マージャンをしていて食事時になった場合、一休みして落着いて食べればよい、といつもおもう。店屋《てんや》ものなら十分間もあれば片付いてしまうのだが、それができない。運転しているときの状態によく似ている。
 マージャンの溜《たま》り場のN旅館が上野にあったころには、近所にいろいろ旨い店があって出前もしてくれた。しかし、それでもゲームをやめないで、半分だけうまいと感じながら食べてしまう。
 その旅館が赤坂に移転してからは、旨い店は出前をしてくれない。出前の旨いものもすこしはあるのだが、容器が三重になっていたりしてゲーム中には食べ辛い。
 近ごろでは、もっぱら近所のソバ屋の親子丼か天丼を註文する。この種のものが一番食べやすいし、味についても過大な期待を抱いていないので裏切られることがない。
 ニワトリがブロイラーになってからは、肉ばかりでなくタマゴまでかすかな異臭がするのだが、ソバ屋の親子丼の場合は煮込む汁が濃いためか、その臭いを感じないで済む。
 以下は、ギャンブルの話になる。三年前に、マージャンの「幻の役満」といわれる九連宝燈(ただし準正)を「八索」で和了《あが》ったことは、私ももう言い倦《あ》きた。しかし、その後「八」の数字がギャンブルに絡んできて、吃驚《びつくり》することがいろいろ起る。
 ラスベガスのカジノでのブラック・ジャックの場合、トランプを一度に四箱入れた木の箱を使って、胴元が客にカードを配ってるテーブルがある。
 四デッキ・システムと称しているが、これを輸入変形させて、友人と二人だけのゲームのときに応用している。赤青一組で計一〇六枚(ジョーカー二枚を含む)を混ぜて切って二人の中央に積み、親が替るまではそのままの形でカードを配ってゆく。親は子の前の二箇所に一枚ずつカードを配り、自分の前の二枚のカードのうちの一枚を表にして示す。差し向いのゲームだが、親は二人を相手にしていると考えればよい。
 昨年の秋、阿川弘之とこのゲームをしているとき、親になったアガワの開いて示したカードがダイヤの八だった。私に配られたカードは右も左も八である。まず右側のカードでゲームをはじめて、一枚配られたカードがまた八なので、もう一枚要求した。
 同じ数字のカードが三枚揃うと、五倍の役(本場ではこの役はない)ときめてある。その一枚がまたまた八で、役ができた。
 次に、左側のカードでゲームをおこなうと、こちらも八・八・八の役ができてしまった。一〇六枚のうち八枚しかない同じ数字のカードが、テーブルの上に、七枚並んでいる。こういうケースの確率は九連宝燈よりもすくない。
 親・子・孫の三代にわたって連日ゲームをしても、できないのではあるまいか。賭場《とば》で八と八で計十六になったときさらに札を要求したとすると、全体のバランスを崩してほかのお客さんに迷惑をかけた罪で指を切られるから確率はゼロだ、とある人が言った。
 しかし、シロウト二人の差しのゲームなのだから、指のほうは勘弁してもらう。
「八」の数のからんだ奇跡的な事柄に、私は深く驚いた。しかし、アガワは負けて口惜《くや》しがっているだけで、その事柄にはあまり興味を示さない。
 

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