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贋食物誌98
日期:2018-12-08 22:58  点击:297
     98 コーヒー㈰
 
 
 戦後、アメリカのコーヒーを知ったときには、奇異な感じを受けた。それまでのコーヒーとはまったく違っていて、これでいいのかとおもったが、番茶と同じに砂糖も入れずガブガブ飲めばよいことが分かってきた。
 これでは、コーヒーの味に凝る必要はなく、これもいいな、とおもった。
 私は三十歳くらいまではコーヒーを体が受け付けず、喫茶店ではもっぱら紅茶であった。その後、飲むようになったが、好みについてはイタリー式のエスプレッソか酸味がかったのが好きだ、という程度である。
 コーヒーは、凝りはじめると際限がないようで、コーヒー挽《ひ》きにまで強い興味を示す。
 その品物で古風なものは、眺めるのは好きだが所有したいとはおもわない。
 一昔以上前になるが、小島信夫がパリの蚤《のみ》の市で年代もののコーヒー挽きを二つ買って帰った。それを聞いた安岡章太郎がタクシーで馳けつけて、一箇貰ってきた。その情熱を、フシギに感じたのだが、要するにマニアと考えれば解釈はつく。
 誰の神経にも欠落部分があるものだが、私は宝石にまったく関心がない。ひどく高価なダイヤモンドの指環を嵌《は》めた女が、その指を見てもらいたそうになにげないふりで動かしていても、気が付かない。あとで、同席者が、
「あの女、すごいダイヤをしていたな」
 といっても、
「へえ、知らなかった」
 で終りになってしまう。
 宝石についての見解というのは持っていて、ダイヤモンドの指環を嵌めたいなら、数億円のものならいいだろう、とおもっている。しかし、そういう光景を見るのは私の接触範囲においては不可能なことで、いっそのこと何もしないほうがよろしい。どうしてもなにか嵌めたいなら、千円くらいで面白味のあるというか奇抜なというか、そんな指環をすればよい。
 しかし、それは考え方であって、興味ではない。
 最近眠れないままにこれまでに深い関係をもった女性をおもい出してみていると、その数人のうち一人として指環を嵌めていた女がいなかったことに気付いた。ふとした浮気の場合は、別である。
 そのことに気付いて、あらためて私はそれらの女の精神構造に思いを至した。女たちはみんなやさしい良い女だったわけなのだが、それにしてもムゴイ目に会わされた感じも強いのは、これはどうしたわけなのだろう(というのは疑問ではない。答えは分かっている。つまり、詠歎なのだ)。
 ところで、数億円の宝石の所有者は、それとそっくりのイミテーションをつくっておいて、パーティなどにはそっちのほうを嵌めてゆくという。これも、私には分からなかった。資産一千億の人間が、一億円のダイヤを紛失しても、それは私が千円札一枚落したようなものである。模造品を嵌めるなどとはミミッチイとおもっていたが、宝石マニアという点に考えを向ければ理解できる。
 先日も、売価五千万円と称するサファイヤだったかエメラルドだったかを見せられたが、一向に美的な感じを受けない。
「なんだ、これは。夜店のアメみたいで、舐めると溶けてしまいそうではないか。ニセモノじゃないのか」
 と言った。
 相手は黙って笑っていたが、いまでも多少の疑いが残っている。

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