マゼールのレパートリーは、現代の指揮者なみに、バロック音楽からクラシックとロマン派を経て、バルトーク、ストラヴィンスキーにおよんでいるし、そのほかにまた、非常な数にのぼるオペラのナンバーが加わるわけであるが、そういう音楽の中でも、彼が、とりわけて、好んで演奏するのは、J・S・バッハであるという話も、私には、無条件で納得できる。
私は、ベルリンの放送交響楽団の演奏会で、彼が『ブランデンブルク協奏曲』を、三曲ずつ演奏するのをきいたことがある。そのころはちょうど、ベルリン・フィルハーモニーでもカラヤンが同じプログラムを組んでいた。が、この二人では、マゼールのほうが、バッハに対してずっと厳粛というか真面目というか、とにかくバッハに真剣に立ち向かっているところがあり、それは見ていてさえ、気持がよかった。
これはレコードもあるから、日本でもきいた人も少なくあるまいが、実によい演奏である。カラヤンの考え方は、バッハのこういった管弦楽曲に関しては、根本的にとても洒落た遊びの精神から出たものであるが、マゼールにとっては、バッハこそ、彼が安心して、彼のすべてをありのままに託して悔いることのない、ほとんど唯一の音楽であり、そこでは、ふだんマゼールが人との交わりの中ではめったに出すことのできない心の奥に流れているものが、巧《たく》まず、自然な形で出せる状態になっていることがよくわかる。
私は、「厳粛というか真面目というか」と書いたが、それは何も彼が何ものかに向かって、いつもの自分とちがう姿勢を故意に作って、緊張してみせているというのではない。むしろ、その逆で、ここでこそ、本当に寛《くつろ》いでいるのだ。そうして、彼にとってみれば、そうやってらくな姿勢でいられるということが、一般的にいってすでにとてもむずかしい、大問題になってしまっているのである。
といっても、誤解されても困る。マゼールのバッハには、何にも感傷的なものはないのである。ちょうど会話の時の彼がそうであるように、キャリアからおして、またちょっと会っただけでは、妙にとり澄まして気取った人間のように見えるために——本当は人間というものに対する気おくれから出ているのだが——、マゼールのことを、やたら自意識の強い、冷たい気取りのように思う人もあるかもしれないが、そうではなくて、彼は自分が何かの中に閉じこめられてしまっているのを感じているうえに、幸か不幸か、あまり《言葉》というものをもっていない男なのだ。言葉による《自己表現》というものについて、慣れてもいなければ、自信もない男なのだ。彼は話をしても、他人には自分のことをなかなかわからせることができない。
そういう彼にとって、バッハの器楽は、過度に神経質でも、感傷的でもなければ、衝動的でも情動的でもなく、均整と明確さを失わず、しかも、表面的に流れたり、感覚的なものに没入したりすることのない、安心してつきあえる最高の世界を提供してくれるものなのである。
このマゼールの指揮できくと、『ブランデンブルク協奏曲』全六曲の中には、ずいぶんいろいろなものがあることに、改めて気づくだろう。作品が無類の確固たる形をしてくれているおかげで、マゼールは、行きすぎる心配なしに、自分を投入できるのだ。
同じバッハでも、しかし『ロ短調ミサ』をやるとなると、音楽的にいえば同じわけだが、何しろ、これは同じバッハといっても、また、まったく一つの独自の世界をつくっているものであり、キリスト教二千年の歴史の根本に直結している作品であるから、話はかなり複雑にならざるをえない。
マゼールは、全体として、かなり速めのテンポをとり、ときには速すぎはしないかしらと思われる個所も出てくる(もしかしたら、この困難を極めた曲ではむしろ、こんなに速くしたほうが、合唱はかえってらくなこともあるからだろうか)。しかし、その結果、どうかすると教義的なものが顔を出しすぎる傾きのあるこのミサが、音楽的にいって、非常に形のよくとれたものとして鳥瞰《ちようかん》できるようになる。しかも、そのために、(たとえば一つ一つ、ゆっくりおしつけるようなリズムをもった第八番の〈Qui tollis peccata mundi〉の始まり以後のように)誇張されたり、感傷的になったりすることなしに、強く激しいものが、炎のように燃え上がってくる。あるいは表面は冷たいようでいて、内に熱狂的なものを潜めている(たとえば、第十一番の〈Cum sanctus〉の大フーガ)といった演奏をきかせるのに成功することになるのである。だが、第十九番嬰《えい》ヘ短調の〈Confiteor〉の合唱も速めなのはよいのだが、それに続いてアダージョで〈Et expecto resurrectionem mortuorum〉を経て、ヴィヴァーチェに入ってゆく、あのすばらしい変換は、私には、何というか、不発に終わってしまったように思われ、残念である(こういうことは、カラヤンがもう、すごく、うまくやっている)。
マゼールが、バッハの演奏にすぐれている技術的な理由の一つは、彼がメトリック、つまり小節や楽節の強拍やアクセントの基本を徹底的に身につけている点にある。「徹底的に身につけている」というのも変な言い方で、むしろ、これこそ、あの複雑を極めている血統関係で云々《うんぬん》するより、もっと端的に、マゼールという人物の音楽の基本がラテン的なものに根ざしていることを示すものだといったほうが、そもそも正確でもあれば、手っとり早くもある、というべきなのだろう。そのことは、『ブランデンブルク協奏曲』のように一定のパターンを何回でも反復しながら音楽を前進させ形成してゆく作風の場合はいうまでもなく、このミサ全体を通じても、きわめてはっきり出てきていて、複雑な合唱をさばきながら、管弦楽がその陰で、アクセントを入れ、合唱を支え、間奏を埋めているのをきいていると、私には、マゼールのあの首を細かく動かしながら、アクセントをつける姿がありありと目の前に浮かんでくるのである。