だが、それだけだったら、私は、かつてふれたことのある彼について、もう一度書く気になったかどうか、わからない。
この同じモントゥは、また、単に人好きのする、人生の美食家でよい音楽家だったというだけでなくて、完全に、専門家のための音楽家でもあった。こういう言い方は、少し注釈を必要とするだろうが。
私は、前に、モントゥの明快で精緻を極めた棒さばきということをいったが、彼がそういうタイプの指揮者だったということは、実は、棒のふり方が決定したことではない。そういう棒を必要としたのはオーケストラの楽員たちより、むしろ、彼自身だった。つまり、モントゥは、そういう棒を必要とするような音楽を求めたのである。あるいは、彼の音楽へのアプローチがそういうタイプのものだったのである。
モントゥのレコードに、ベートーヴェンの『第二』『第四交響曲』をハンブルクの北ドイツ放送交響楽団で指揮したものがある。これをきくと、曲は同じでありながら、あのいつもの悲愴《ひそう》がかった、芝居気たっぷりの、そうして劇的な緊張力と爆発力にみちたベートーヴェンではなくて、正確な足どりで前進し、のびのびと歌い、元気よく走り、考え深そうな眼差《まなざ》しになり、まじめで省察的な表情をとったり、ある時は思いきり活力にあふれた身振りで両腕をふりまわしたり、とび上がったり、障害物を跳びこえたりといった具合の、非常に生き生きした音楽になっているのに、気がつくのである。このベートーヴェンには、何の誇張も強がりも無理も感じられない。それでいて、『第四交響曲』の面に針をおろすと、それは、申し分なく深くて、重々しい、音楽になっている。冒頭のアダージョからして、新古典主義の人びととちがった、たっぷりとゆったりした、まるでヘンデルのような歩みがあるのである。
そういうことは、ベルリオーズの『幻想交響曲』でも同じである。今、ベートーヴェンの交響曲、ベルリオーズの交響曲ということで現代の代表的指揮者を考えるとして、すぐモントゥの名を上げる人がいるかどうか。少なくとも、私には、すぐ、彼の名を思いつくことはないだろう。だが、こうして改めてきいてみると、モントゥのベートーヴェンは実にすばらしい。精妙さと率直さが、きず一つない演奏の中で、こんなに見事に同居しているということは、モントゥの指揮の異常な高さを証明している。
それというのも、モントゥは、音楽を客観的に眺め、自分をその中に埋没させもしなければ、まして、『幻想交響曲』の主人公と同化するような羽目にはまったく陥らないからである。彼は、むしろ、ある距離をおいて、音楽がよく眺められる地位に自分を保つ。彼の務めは、そこに鳴るべき音楽がどんなものであるか、それを正確に描き出すことにある。それがわかると、ここでは明快とならんで、均衡ということが、また非常に重要であることもわかってくるのである。そうして、この均衡という点では、彼のヴァーグナーの演奏がまたすばらしい実例となる。コンサート・ホールのレコードは一般に音はそんなによくないかもしれないが、ときどきおもしろいのをきかせてくれる。モントゥが『トリスタン』の〈前奏曲〉と〈愛の死〉や『オランダ人』や『タンホイザー』の序曲を指揮したレコードも、その見事な一例で、これできいていると、ヴァーグナーの管弦楽の書き方のすばらしさ——単によく鳴るというだけでなく、少しの無駄もない練達と、それから天才的な霊感としか呼びようのないものとをあわせもつ最高級の傑作にほかならないということ——を、これくらいよくわからせてくれる演奏が、ほかに、どこにあるだろうかと、考えてしまう。
もちろん、これは、クナッパーツブッシュやフルトヴェングラーのような人びとのあの巨大な量感にみちた、激情と明澄の目もくらむような交替からなる、圧倒的に力強い演奏とはまるでちがうものだ。また、同じ明快と均衡といっても、トスカニーニのあの白熱的なヴァーグナー追求の探険ともまるでちがう。モントゥの武器は力でもなければ、熱でもない。それはチャームであり、雅致である。
だが、こういったからといって、まちがってはいけない。そうだ、私は、大事なことを思い出した。
モントゥが、トスカニーニともフルトヴェングラーともちがうということを、単に個人の趣味とか育ち(民族性)とか、そういったものにだけかこつけて、解釈してしまうのは、これまた、芸術における大きな曲解なのである。
こういうことになるのは、個人の好みではなくて、様式上の差なのである。別のわかりやすい例でいえば、ちょうど、美術のうえで、ゴシックとかルネサンスとかのスタイルの差があり、たとえばシャルトルのカテドラルのあの前面の壁にある浮き彫りの像たちが、やたらと細長くできていて、頭部や足とのバランスからいって、ミケランジェロのダヴィデやモーゼの像のそれとまるでちがうのをさして、前者はバランスが悪く、ミケランジェロにいたって、彫刻は真のプロポーションを実現したといってみたり、あるいはゴシックの壁面に遠近法的な考え方が出ていないからといって、それを後世の絵画より真実味の劣ったものといったりするのがまちがいなように、モントゥのヴァーグナーやベートーヴェンをもって、本物ではないというのは、二重にまちがいなのである。その一つは、ベートーヴェンやヴァーグナーについて、たった一つの正しい解釈があるというのがすでにまちがいだからだし、その二は、モントゥの解釈とフルトヴェングラーの解釈は、ともに、二つのまったく別々な様式に属し、その様式の枠内《わくない》で、両方とも、非常に高度なものを達成しているからである。
それにしても、モントゥで『春の祭典』をきくその楽しさには、また、かけがえのないものがある。それは何もモントゥがこの曲の初演をうけもったという、そういう歴史的な事情があるだけではない。棒の無類の精密さと、音楽に対する非耽溺《たんでき》的で賢明なアプローチ、透明で均衡のとれた音響を獲得する手段を探し当てるうえでのあやまつことのない判断力、こういったものが相集まって、この二十世紀の最高のバレエ音楽を扱ううえでのモントゥの特別な適性が、そこに、十二分にあるからである。
そのうえ、この演奏には何の無理も加えずに、あのむやみと交替するリズムを浮き彫りするうえで、モントゥが感じ、それに誘導されて楽員たちが感応している、何ともいえず楽しそうな活気があるのである。ことにそのオーケストラがパリ音楽院管弦楽団である場合、それはもう比較するもののない愉楽となる。
『春の祭典』には、実にいろいろなレコードがあり、その中では、たとえばブレーズがクリーヴランド管弦楽団を指揮して入れたものすごいのもあるけれども、このモントゥの盤の楽しさは、また、格別である。