日语学习网
世界の指揮者49
日期:2018-12-14 22:31  点击:277
  それを、もっと、はっきり、ほとんど有無をいわさぬ説得力でもって示しているのが、ショルティの指揮したオペラ、特に『エレクトラ』『サロメ』、それから『ニーベルングの指環《ゆびわ》』といったレコードである。これらのレコードが数々の賞をとったのは、まことに当然のことで、ことに『エレクトラ』など、これほどの迫力をもったものが今後も出るかどうか、私にはちょっと考えられない。
 といえば、一つには、このレコードにはエレクトラにビルギット・ニルソン、クリュテムネストラにレジーナ・レズニックといった当代無比を謳《うた》われる歌手が顔を揃《そろ》えているうえに、オーケストラも名にし負う、ヴィーン国立オペラのそれだから無理もない、という人もあるかもしれない。そういう点も、たしかにある。ことにニルソンの歌など、本当にすごいくらいの名唱である。
 だが、やはり、それだけではないのだ。
 ニルソンでいえば、エレクトラの登場、つまり学習用スコア("Elektra"Studienpartitur,Boosey & Hawkes,London)の二五ページ、Largamenteに変わって"Allein! weh, ganz allein"にはじまってから四七ページにいたるまで、蜒々《えんえん》二十二ページにおよぶ長大な歌を通じて、彼女の歌い方の、その堂々として気品のあること。これはもう、今は復讐《ふくしゆう》の鬼、狂人に近い存在になってしまったとはいえ、元来はまさにトロヤ遠征のギリシア総軍の大将たるアガメムノン王の娘たるにふさわしい、すばらしいスケールの大きさと表現の正確さをかねそなえた名唱である。だが、それと同時に、たとえば三二ページ上段のラングザーム(un poco lento)になって七小節ほどはさまれた器楽の間奏(歌詞でいうとzeig dich deinem Kind!とVater! Agamemnon, dein Tag wird kommenの間)(譜例3)の演奏など、実によい。文字通り心にしみ込むようなのエスプレッシーヴォである。こういうところをきいただけでも、ショ ルティが、あらっぽいどころか、細やかなものの表現にも心憎いほど長じた指揮者であることがわかるのである。
 ところで、私がさっきエレクトラの登場と呼んだ個所で、オーケストラは、こういう和音を鳴らす(譜例4)。下からひろってe‐=‐h‐c‐h‐‐f‐、つまり、Eの上の長三和音と、の上の長三和音が同時に鳴らされる——いいかえれば、ホ長調であると同時に変ニ長調ないしは嬰《えい》ハ長調であるところの和音という、これまで考えられないような大胆な和音を背景に、エレクトラという女性は登場するのだが、その時のこの二つにひきさかれた和音——いや、二つのまったくちがう存在が無理矢理一つに組合わされている音塊の立てる響きの峻烈《しゆんれつ》な鮮明さ! ショルティほどに、無慚《むざん》な手つきでこういう響きを引き出している指揮者は、ほかに誰がいるのだろうか?
 このオペラは、周知のように一九〇八年という早いころ、すでに調性の限界ぎりぎりまでのところに迫った、未聞の不協和音にみちた音楽であり、スキャンダルとしてうけとられた作品である。今、あげたような和声上の破天荒の扱いは、いたるところに見出《みいだ》される。ショルティは、そういう時、音の荒々しさの前に、少しもひるまず、容赦しない。それはもう、私たちの耳を残忍なくらいに打つ。
 それだけだったら、しかし、私は、このレコードに、そんなに強い印象をうけなかったかもしれない。というのも私たちの耳は、このスコアにある強烈な不協和音に脅《おび》える一方、実は響きそれ自体としてだけなら、もっとひどい音に接した経験を積み重ねてきた、そういう耳(つまり音楽をきく心)でもあるからである。
 ところが、ショルティによる『エレクトラ』をきいてゆくと、私たちは、これとはまるでちがう音楽に出会うのだ。

分享到:

顶部
12/01 11:56