クラウスがR・シュトラウスに近かったのは、前述の通りである。彼は、ヴィーンの国立オペラで、シュトラウスとフランツ・シャルクを先輩として、同じ時期に働いた人であり、また、このドイツのロマン主義の最後の巨匠から、四つまでもオペラの初演を委《ゆだ》ねられた人である(一九三三年の『アラベラ』、一九三八年の『平和の日』、一九四二年の『カプリッチョ』、一九五二年の『ダーナエの愛』の、それぞれ、ドレースデン、ミュンヒェン、ミュンヒェン、ザルツブルクでの世界初演。この最後の作品は遺作としての初演だった)。
クラウスがR・シュトラウスの作品の指揮者として、最もオーセンティックな人と目されるようになったのも、当然のなりゆきだし、事実、彼はシュトラウスから多くを学んだにちがいない。この二人については、ショーンバーグの本に、一つの逸話が書いてある。一九三三年のドレースデンでの『アラベラ』の初演のおり、クレメンス・クラウスが上演に備えて、指揮をとり、ルバートだとか、休止だとか、リタルダンド、テンポの変化などいっぱいつけた。「しかしいざ稽古がはじまると、シュトラウスは苛立《いらだ》たし気に、何も彼もきれいに御破算にしてしまった。"Nein kein ritardando"とか"Kein fermate"とか"Einfach, in Takt"(簡単に、拍子を守って)、とかいった具合に」(ショーンバーグ『偉大な指揮者たち』二三九ページ)
ついでに同じ本から引用すれば、シュトラウスは、ある日、ベートーヴェンの交響曲の緩徐楽章の練習をつけている時、オーケストラに向かって、"Gentlemen, please, not much emotion. Beethoven wasn't nearly as emotional as our conductors."(諸君、そんなにカッカしないでくれたまえ。ベートーヴェンは指揮者先生がたみたいにのぼせ性じゃなかった)といったという話のあるくらい、実に直截《ちよくせつ》に簡潔に指揮したので有名な音楽家であるから——しかし、その彼は、生きていたころ、少なくとも壮年時までは、作曲家としてと同じくらい、指揮者として高く評価されていたのである——、クラウスとのこの逸話も、その伝の一つにすぎまいが、だからといって、クラウスが、そこから多くを学んだということを否定することにはならない。むしろ、今日、クラウスの指揮をレコードできいてみた時の印象をのべる時には、まず、この逸話を思い出してみるのが、大切だろうと思う。