私は、クラウスをききそこなったので、さっきいった旅行中、レコードを一組買ってみた。『サロメ』である。もちろんシュトラウスのあの『サロメ』であり、ヴィーン・フィルのオーケストラとともにクリステル・ゴルツがタイトル・ロールを歌い、それに、パツァーク(ヘロド)だとかハンス・ブラウン(ヨハナーン)だとかマルガレータ・ケネイ(エロディアス)だとかが加わったものである。あまりにも古いレコードで、もう十何年もきき直したことがない。しかし、この中でのある個所——たとえば、ヨハナーンとサロメのやりとりの場などの演奏は、今にいたるまで忘れようといっても忘れられないくらい耳についている。何が? その「艶にやさしい」ところがである。私は、ほかにももっと情熱的で力強いサロメや妖艶《ようえん》なサロメはきいたけれども、このレコードのそれのように、官能的でありながら、しかも優しい風情の失われることのない演奏は、たえて、出会ったことがない。
例の、〈七つのヴェールの踊り〉の音楽にしても、そうだ。断わっておくが、私は、このオペラの中で、この有名なあまりにも高名な部分は、どちらかといえば、出来のよくないほうだという意見にむしろ賛成である。しかし、このクラウスのレコードできいた記憶は、私の頭にこびりついて、以来、ほかの演奏では、ほとんど満足したことがない。みんな、露骨すぎるのである。もちろん、この音楽自体には、何の品位もありはしないし、多かれ少なかれ、露骨な挑発の場として、シュトラウスは作曲したとみてよかろう。しかし、クラウスできくと、たとえ高貴なものは感じられないにせよ、そこには、含羞《がんしゆう》から性的な挑発にいたる間の官能の無限の段階がある。つまり、露骨な性の挑発だけでなく、何ともいえぬ《色気》さえあるのである。
こういったことが可能なのも、クラウスがヴィーンに生まれ、嘘か本当か知らないが、帝室と姻戚関係の貴族出身とか何とか噂されるだけの、何か古い血の流れている家系の中から出てきた芸術家だからだ、というように、私には思われてならない。彼の『サロメ』は何よりも、自分の中を流れている古い血の呼び声から逃れようと必死な人間を描いているのである。さもなければ、この少女は、ヨハナーンのような荒地に叫ぶ異形の人などに魅せられなかったろうに。
こういう趣は、クラウスの指揮するR・シュトラウスのどれにも感じられるのだが、たとえば、『ドン・ファン』などは、その顕著な実例だろう。ここに底流しているものも、いいようのない不安であり、しかもそれは、明確に表面に出ているのではない。ここに現われてくるものは、フランスのオーケストラのように表面にはっきり出てきて、きらきらと輝くような音色ではなくて、むしろ、粘りつくような手ざわりの色彩感、よく合ってはいるが、透明というよりはやや重た気な諧調《かいちよう》とでも呼びたいようなヴィーン・フィルハーモニーの合奏による、まったく独特な、地味で、しかも雅《みやび》やかな音の姿なのである。オーボエによって歌われる優婉《ゆうえん》な女性の姿にしても、それから「ドン・ファン」の悲しく傷ましい末路にしても、そうである。登場人物たちにはふるいつきたくなるような魅力はあるが、しかしその訴えかけはけっして直接ではない。そうしてこの永遠の遍歴者の末期は行き場のない暗さをもってはいるが、絶望的な重圧感をもって、きくものにのしかかってくるといったものではない。
私がそういう暗さ、空虚の重圧というものを痛切に感じたのは、フルトヴェングラーがベルリン・フィルといっしょにパリにやってきて『ドン・ファン』を指揮した時に、はじめて経験したものであり、以来、ほかの誰からも、あの人ほどの寂寥《せきりよう》を描き出したのをきいたことはないのだけれども。ついでにいえば、カラヤンのこの曲の指揮ですばらしいのは、最後の虚無の厳しさより、そこにいたる過程の中での遍歴の種々相、刻々の変化の流れそのものの中での浮沈の体験なのであって、こういった人びとが、すべて、私たちに同じ『ドン・ファン』を語らないということ、それがあればこそ、私はこんな具合に、指揮者の月旦をしているのである。
ただし、クラウスのような形で、作品に独特の優雅、流麗な香りを添えうるような音楽家のタイプは、いかにヴィーンでも、しだいになくなってゆくのではなかろうか?