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世界の指揮者56
日期:2018-12-14 22:35  点击:276
  クラウスは、ヴィーンという、この世界でも二つとはない、独特な趣をもった大都会での音楽生活に、一つの深い刻印を押した指揮者だった。といっても私は、クラウスがヴィーンにはじめて、ある一つのプロフィールを与えたというのではない。そんなことは、誰にも不可能だった。あのモーツァルトにさえできず、ベートーヴェンにさえ不可能だったことである。しかし、また、ヴィーンの音楽といっても、ハイドンが、モーツァルトが、ベートーヴェンが、シューベルトが、そうしてブラームス、ヴォルフ、ブルックナー、またマーラーが、ブルーノ・ヴァルターが、ヴァインガルトナーが、そうしてシャルクが——と、こうして数え立てているうちに、その中からしだいに出来上がり、形をとってきたのであって、そういうすばらしい芸術家たちの黄金の環《わ》の一つが、クレメンス・クラウスであったこと。これは、もう、疑いをいれる余地のないことである。
 そうして、その間、重点が帝室や貴族を中心としたヴィーンの社交界からしだいに市民社会に移動してゆく過程の中で、古いものから残され、新しいものの中に、ごく自然に伝えられ、保存され、そこでまた新しい花を咲かせていったのは、何と何であったか? これを詳細に正確に見とどけることは、私たちにはとてもできない話ではあるけれども、少なくともクラウスという音楽家が、その出生から、その音楽家としての出発(彼はヴィーン少年合唱団〔当時の帝室少年合唱隊〕で最初の教育をうけた音楽家だった)、成長、成熟といった軌跡の中で、二十世紀前半のヴィーン市民の音楽生活と深いところで接触し、のちにはそれを形成する有力な力の一つになったこと、これもまた、たしかな話であろう。
 私たちが、「ヴィーンでは音楽が市民の間に……」という時、あるいは「ヴィーンの演奏会では……」という時、そういう時の《ヴィーンの音楽》というイメージが今日のような形になっているについては、クラウスのような指揮者が、大きく一役を買っていると見なければならない。
 現に、彼は、大戦直後、フィルハーモニーを率いて、大《おお》晦日《みそか》と元旦にかけての間に《ニュー・イヤー・コンサート》を開いて、ワルツを中心に《ヴィーンの音楽》を演奏したものだが、これは単に興行的に成功したというだけでなく、敗戦に打ちひしがれたヴィーンの市民たちに大変な人気を呼んだ。
 クラウスのそういう面は、ヨーハン・シュトラウスたちの演奏を通じて、日本の——というより、世界中の音楽ファンの耳にすっかり馴染《なじ》みとなっている。それについては、私が書くまでもないだろう。
 
 私は、ただ、クラウスでは、一つだけひどく気に入らないことがある。それは彼が、フルトヴェングラーがナチと衝突して、ベルリン・フィルハーモニーやオペラから離れた時、その後任に任命されるとさっそくベルリンにのりこんだ件である。くわしい事情がわかれば、私の考えも変わるかもしれないが、あれは、本当に、いやな話である。

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