しかし、ブレーズのレコードということになれば、誰しも最初に思いあたるのはストラヴィンスキーの『春の祭典』であろう。私にしてみても、それまでブレーズの実演は何度かきいていたが、レコードでびっくりしたというのは、この『春の祭典』が最初だった。これをきいたあとで熱烈な賛歌を書いたことは今でも覚えている。何しろ、そのころは、ブレーズの指揮の優秀なことなど、日本では、ごく少数の人を除けば、まるで知られていないも同然だった。それに、この時のレコードは、コンサート・ホールから出たものだった。どういうわけか、ここから出るレコードは、レコード雑誌でも、あまり批評にとりあげられない。私はそういう事情をちっとも知らなかったせいもあって(今でもその理由がわかったわけではないが)、こんなすばらしいレコードがうるさいレコード・ファンの間でさえ、あまり知られていないのに、すっかりびっくりもし、一般の人はともかく、これほど画期的名演を黙殺しているレコード批評家というものに腹を立てたというわけであった。
ただし、昨年、彼がクリーヴランド管弦楽団につきそって、ジョージ・セルと交替で指揮をしに来日したころ出た同じ曲を、この管弦楽団で入れたもの(前のは、オルケストル・ナショナルだった)が発売され、純粋に演奏の出来、それにレコードの出来ということでいえば、前のレコードを完全に抜いてしまった。いや、それどころか、このレコードの以前に出ていたすべての盤は、この前には色褪《あ》せたものになってしまった。私個人の趣味の中では、前にも書いたように、あの有名な一九一三年五月のこの曲の初演を手がけたピエール・モントゥのレコードは、まったく別の意味で今もなお大切に思われるのだが、しかし、こういうものは、実はレコードできけるというのも、一面ありがたいような、しかし一面悲しいようなものであって、今、モントゥのレコードを、ブレーズの最新盤とくらべてみれば、気の毒なくらい、ききおとりする。音ははっきり出ていないし、随所に不正確なものがあり、ダイナミックもおよばない。
ブレーズの『春の祭典』のすばらしさは、個々の点で正確を極めているというだけでなく、全体をきき通すと、比類のない迫力をもっている点にある。音の輝かしさだって非常なものだ。これもクリーヴランド管弦楽団というアメリカ第一の性能を誇るオーケストラを存分に駆使しているからでもあるが、このオーケストラにしても、ジョージ・セルがああして逝去《せいきよ》してしまった以上、果たして、いつまで、この高性能を持続できるものか。そう思うと、実に、よい時に、レコードに入れておいたものである。
そのうえに、ブレーズできいていると、それまではっきりしなかった個々の音型がよくきこえるというだけでなく、それらのリズムのパターンのもつ構造上の意味がよくわかるようにひかれているのが、すばらしい。これまでのように、ただものすごい力だ、迫力だというのでなく、よく理解できて、しかもそのためにヴァイタリティが少しも失われないのである。これがこの演奏の優秀さの最大の特徴である。
音だけの凄《すご》さ、迫力ということになれば、ひょっとしたら、ほかにあるかもしれない。
私は、そのころちょうど外国にいたので、実演はきかなかったが、数年前日本にソ連の国立交響楽団がきて、エフゲニ・スヴェトラーノフという人の指揮で、この曲を演奏したことがあったようだ。その実演をきいた人びとの話によると、それはもう、これまできいたこともないような、ものすごい大きな、厚ぼったい音がしたそうで、ちっとやそっとでは忘れられない演奏だったという話である。
そんな話を前々からきいていたので、私は、同じ顔ぶれの演奏によるレコードをきいてみたレコードだから、純粋に物理的な音量はわからないけれども、これはこれで迫力に富んだ演奏だと思った。
と同時に、これは西欧ですでに一つの伝統となっている演奏のスタイルとは、かなりちがうものだということもわかった。これといちばん遠いところにある演奏といえば、まず、アンセルメあたりになろうか。アンセルメのは、物量できかせるダイナミックとは反対のものであるもっともオーケストラとして、スイス・ロマンドはソ連国立交響楽団とはとても太刀打ちできない。
スヴェトラーノフの盤をきくと、まず最初の出だしのあの有名なファゴットのふしが、やたらクレッシェンドがついたり、ディミヌエンドしたりまるでオペラの歌い手の歌のように、《表情》がいっぱいにつめこんであるのに気がつく。まさに厚化粧である。リムスキー〓コルサコフの流れのうえに立つものではあっても、二十世紀初頭に、音楽の流れを十九世紀のそれからきっぱりたちきって、まるでちがう方向に変えるのに成功した作品の演奏とは、とても思えない。
そういうことは、この先になって、やたら変拍子が出没し、そうして大胆を極めた不協和音が鳴り響かされるようになっても、根本的にはちがわない。和音にしても、もちろん、それまでの機能和声によるハーモニーの動きとはひどくちがうものではあっても、それを垂直にとった音の和音的緊張関係、あるいは低音の重力、牽引《けんいん》性というか、そういうものの余韻は、充分すぎるくらいに、きこえてくるのである。それもまるでブルックナーか何かのように。
そういったものの一例でいえば、あれはたしか——そう〈春の踊り〉と呼ばれる部分、Boosey and Hawkesのポケット・スコアで、三七ページから三八ページに入る前後のところ。これまでの〈誘拐《ゆうかい》の戯れ〉の烈しい動きが一段落して、弦が二小節にわたってユニゾンでEととの間のトレモロをやる。そうしてこれも終わると、それをひきついで、フリュートがの上でトリラーをやる。そのフリュートがトリラーを吹くだけで、全オーケストラは沈黙する(譜例1)。そうして改めて音楽がはじまる時は、クラリネットの旋律がきかれるのだが、それは先行する部分がヘ調で終わったあと変イ長調となってはじまるのである。そうして、この変イ長調トランクイロの部分が六小節あったあとで、曲はソステヌート・エ・ペザンテ、変ホ短調に移ってゆく。ところで、この3度近親調による転調は、私としては、何もわからず、ただもうびっくりしてこの曲をきいた最初の時以来、記憶に残っていた個所の一つであるが、それがこんなに古風な——というのも語弊があるけれども、まるでベートーヴェンの序曲か何かのような感じで扱われるのをきくのは、はじめてであり、私は少なからず、びっくりしないわけにいかなかった。
こういうところをみても、スヴェトラーノフの解釈が——いや、これは解釈といったようなものではなくて、むしろ少なくとも現在のソ連人の音楽の感受性にもとづく構造的な聴き方にもとづいているのだろう——ストラヴィンスキーの音楽を、何を接点として受けとめているかが感じられてくるのである。だから、この曲の演奏一般の与えた印象として、音量の巨大さ、音の威圧的な重量感といったことをとってみても、それは、実は、この音楽を、ヴァーグナーか、ブルックナーか、とにかく、後期ロマン派の和声音楽の一種として、つまり根本的にハーモニーの音楽として把握《はあく》していることから、生まれてきた現象なのではあるまいか。
ブレーズのは、そういうのと、まるでちがう。たとえ、音としての効果に似たものが生まれる場合があるとしても、その基本的性格、または精神においてちがう音楽なのだ。
つまり、ここでは、ロマンティックな、表現の音楽ではなくて、リズムのパターンたちの活躍する舞台となるところの空間を形成する音楽とでもいうか、鳴り響く音の動きのザッハリヒな進行が、この音楽の生命であることを示している。というのも、ここには、手垢《てあか》のついた、表現とか何とかいう《言葉》に対する不信と、それからもっと即物的な響きそのものに音楽の出発点を見ようとする精神とがあったからである。
簡単にいえば、この曲を、スヴェトラーノフのように、ロマンティックに演奏するのは、様式上の誤りなのである。
と、この曲に対して、すでに作りあげられてきた西欧的な伝統は、こんなふうに語るわけだが、そのうちでもこれを最も精神的にとらえているのがアンセルメであり、ブレーズの指揮も、もちろん、その系譜に入る。だが、それでいながら、ブレーズのは、精神と様式、音楽の論理の透徹と明快さのうえに築かれた迫力という点では、この系統のあらゆる演奏をはるかに凌駕《りようが》しているにもかかわらず、これがまた響きのものすごさとずっしりと手応えのある重量感という意味で、透明で知的なアンセルメとはちがって、スヴェトラーノフのそれに最も近いところに立っているのである。私には、これはとてもおもしろく思われる。反対の点から出発しながら、この二人には、共通するものがあるのである。