シャルル・ミュンシュは独仏両国の間で領土の争いのあったストラスブールの出身であり、この街は彼の生まれたそのころは、たまたまドイツ領であったためか、彼がまだ、ライプツィヒのゲヴァントハウス・オーケストラのコンサートマスターをつとめていたころ、当時、このオーケストラの常任指揮者であったフルトヴェングラーから指揮を学んだということになっているのは、誰も知っている。そうして、そのあと、フランスに行き、パリで指揮者としての輝かしい経歴を踏みだすことになったのも。人びとは、こういった経歴から推して、この人が、フランスの音楽とドイツの音楽の両方に通暁した大家になったも当然だという。これも、一般にひろく容認されたところである。私も、それに文句はない。
だが、少なくとも、それと同じくらい重要なことは、彼がヴァイオリニスト出身の指揮者であって、ピアノを学んでしだいに指揮者になっていった指揮者の系統に属さないという事実である。前に私はモントゥの時にもふれたが、こういうことは、おそらく、ドイツ系指揮者よりもフランス系の指揮者に比較的多いともいえるのかもしれない。しかし、何もフランス系指揮者に限ったことでは、もちろんなくて、クーセヴィツキー(もっとも、この人はロシア人であるのと同じくらいフランスの音楽家に近い人とみてもよかろう)やオーマンディもたしかそのはずだし、若いところではローリン・マゼールがそうである。
こういう人たちの指揮を、簡単に一口にまとめてしまうのも無理な話だが、大雑把《おおざつぱ》にいえば、やはりある種の共通点はあるのであって、その一つに、和声的であるよりは、むしろ旋律的というか、とにかく横に流れる線の暢達《ちようたつ》と絹のように艶光りする音色についての好みとでもいったことがあげられはしまいか?
まあ、これは私の仮説であって、私もいいきるだけの自信はないのだから、このくらいにしておくが……。
もう一つ、ミュンシュを実際にオーケストラの楽員の側からよく知っている人たちが、異口同音にいうことは、彼が、どちらかというと練習練習で演奏をかためてゆくタイプでなく、むしろ、本番での一発勝負にすべてを賭《か》けるというか、とにかく、その時その時の本番になって閃《ひら》めき出てくるものを何よりも尊んだ人だったということである。即興性というよりも、むしろ、精神の緊張から生まれるインスピレーションの生き生きした躍動の重視といったほうがよいだろう。そういう行き方が、また、ベルリオーズの音楽のように、ときに、きわめて劇的な表現を、ほとんど和声的にはとるにたりぬ裸のままの旋律一本、それも、歌うというよりはきわめて自由で奔放なレチタティーヴォといったほうがよいものにすべて託してしまっている音楽を表現する時の、その鋭くて、勁《つよ》くて、真実味のこもった演奏にむすびついていった、と私は考えるのである。例はいくらでもあるが、『幻想交響曲』の第三楽章〈野の風景〉をとってもよく、『ロメオとジュリエット』の狂おしいばかりの歓喜と絶望の交錯、それから、この二人の若くて永遠の恋人たちの死を表わした第二部の終わりをとってもよい。こういうところはもちろん、ベルリオーズのころの音楽の書き方として、ミーター(拍節)から解放された音楽になっているわけではないのだが、しかし、精神的には、いわば自由なリズムの音楽になっているのである。
だが、もう一つ、ベルリオーズに少しも劣らずおもしろい例は、ミュンシュの指揮で、ラヴェルをきくことである。
『ボレロ』を例にとってもよい。だが、圧巻は、私の知る限り、『ダフニスとクロエ』の第二組曲である。
この曲の出だし。あのラヴェルの完璧《かんぺき》なオーケストレーションによる夜明けの部分。私はこれをかつてニューヨークで、ボストン・シンフォニーを指揮するミュンシュのもとできいた時ほど、いかにも「上のほうから光のさしはじめてくる感じ」とでもいった印象を強く抱いたことはない。ここでの、何度かくり返してきた、あのバスの軽快さというものは、今思うと、何だか奇蹟《きせき》のように感じられる。
そのあと、私は、パリに行き、同じ曲を、ラムルー管弦楽団をマルケヴィチが指揮する時にきいた。その時のまた、色彩の圧倒的な氾濫《はんらん》の思い出は、今も、残ってはいる(響きそのものとしてではない。いくらなんでも、そんなに私の記憶力は強くない。音色の流れのすさまじさその氾濫に圧倒される想いがした。そのことが忘れがたいのである)。
そうして、それとは逆にミュンシュのは、下からの光の洪水ではなくて、もっと上からきらきらと輝きながら、降ってきた微光のその夢幻的な美しさという記憶として、残っているのである。
いや、これでもまだ、私は自分を少し偽っている。その私の記憶は、実は、今度この原稿を書くについて、ミュンシュがパリ管弦楽団を指揮して入れたレコードをききだして間もなく、よみがえってきたものなのである。それをじっときいているうちに、今度は、私はもうずっと前から、いつもそれを覚えていたような気になってしまったのだ。
記憶というものは、そういう生きかえり方をする。
このレコードは、ミュンシュのレコードとしては、かなり晩年のものだろう。何しろ、ド・ゴール政権の文化相アンドレ・マルローが国威宣揚か何か知らないが、大きな抱負をもって編成のきも入りをしてオルケストル・ド・パリが生まれたのが一九六七年。ミュンシュがその初代の音楽総監督に任命され、「あの大の練習ぎらいの人物が、新しいオーケストラを育成する義務を負わされ、どうするのだろう?」などとヨーロッパの楽壇雀どもが取沙汰していたその噂《うわさ》のまだ完全に消えきらない一九六八年の秋に、楽団披露の巡演中のアメリカで、七十七歳をもって、永遠の眠りについてしまったのだった。だから、ミュンシュがオルケストル・ド・パリを宰領していた期間は一年そこそこしかない。その間に、彼がつくったレコードというものが、ほかに何枚あるのか、私は知らない。だが、この『ダフニスとクロエ』第二組曲を入れたレコードは、かつてボストン・シンフォニーのニューヨークでの演奏会で、彼の指揮姿にはじめて接したその時にきいた同じ『ダフニス』を、私にまざまざと思い出させる。ということになると、私が先にあげたミュンシュの音楽のつくり方の特徴は、ボストン・シンフォニーの特質ということではなくて、やはり、ミュンシュの行き方であるのだと考えてよいということになるわけだ。