トスカニーニとヴィットーレ・デ・サバタのあと、イタリアからは、《大指揮者》といわれる人は、しばらく出なかったようである。もちろんイタリア・オペラの指揮者は別である。この畑なら、ヴィットリオ・グイ以下、現役で各地で活躍中のエレーデにいたる間、幾人もの優秀な人がいる。だが、オペラもやれるが、そのほかに演奏会で交響的な大器楽の指揮者としても、世界の一流の交響楽団でひっぱりだこの指揮者というと、どういうことになるだろうか? ひところ、トスカニーニの流れをくむグィド・カンテルリがいて、将来を嘱望されていたが、たしか飛行機事故で早世してしまった。
そんなわけで今日、かつてのイタリアの指揮者の流れをつぐものというと、まず、ジュリーニがあげられる。
ジュリーニは一九一四年ローマ郊外の生まれ、聖チェチリア音楽院卒業というから、ちゃきちゃきのイタリア系指揮者といって、まちがいないのだろう(もしかしたら、イスラエル人の血をひいているのかもしれないが)。
ところで、私は今、『ドン・カルロ』のレコードの付録の解説にのった福原信夫氏のこのレコードの演奏者についての文章をよんで、ジュリーニの経歴を知ったところなのだが、それによると彼は一九四六年以来イタリア国立放送局の音楽監督となったとある。だが、放送局の音楽監督とは、どういう意味なのだろう?
イタリア国立放送、いわゆるRAIにはすばらしい合唱団がある(あるいはあった)。日本にもたしか二度ぐらい来たはずだから、お聴きの方も少なくないはずである。古い話だが、私は一九五四年の春、ローマでこの合唱団をはじめてきいて、とても感心したものである。その時にこのジュリーニが棒をふったかどうか。どうもそういう気がするが、もう一つはっきりしない。そうしてはっきりしないことを書くのは、私も嫌いだ。しかし、おかしなことに、私には、どうも、ジュリーニの指揮に接したはじめての機会は、この時のことのように思えてならない。そうして、その時、この合唱団はずいぶんすぐれた指揮者が棒をふっているのだなと、感銘をうけた——と、そういう気がしてならないのである。そのあとはミラノに行って、ラ・スカラでの指揮をきいた。ただし出しものは忘れた。何しろ、この時は歌手本位の演奏——というより聴衆の興味の焦点が、すでに今をさかりと火花をちらして争っていたカラスとテバルディの、どっちに味方するかにあったのであり、私も、その空気にまきこまれて、きいていたにすぎないのだから。それに、今のうちにつけ加えておけば、今度ジュリーニについて書くために、『ドン・カルロ』のレコードを用意し、少々きいてみたのだが、私には、どうも、こういうものはレコードをきいただけでは、指揮者の甲乙までは論じられないのである。
そこで、ジュリーニ指揮の器楽の演奏会というと、いつぞやイスラエル・フィルハーモニーに同行して——たしか大阪の国際フェスティヴァルにも来たのだと思うが——来日した時、二回ほどきいただけである。あとはすべてレコードでしか知らない。
一九七一年ヨーロッパに行った時、もうあと一と月ぐらいいれば、彼がベルリンに来て、フィルハーモニーを指揮することになっていたが、その時のプログラムが、マーラーの『第九交響曲』だったのには、少々驚いた。ある人びとにいわせれば、そうして私もその一人だが、『大地の歌』と並んで、この世紀末から世紀の初めにかけての孤高の天才の最高の傑作であるところのこの大作を、イタリアの指揮者がやるというのがすでに意外であるうえに、ベルリンでは、いつぞや、こことは長い間まるで縁のなかったサー・バルビローリが来て、いきなり、この交響曲をふって、熱狂的な感激をもって迎えられて以来というもの、ほかの指揮者はこの曲を敬遠する傾きがあった。何しろバルビローリのおさめた成功は、聴衆や批評家からばかりでなかった。あのやかましいベルリン・フィルハーモニーの楽員たちもすっかり感激してしまい、予定も何もなかったのに、この曲の、この顔合わせの演奏によるレコードが特別に発売されたくらいだったのだから(日本ではどう迎えられたかしら?)。
しかし、それは一九六四年の話。それを、久しぶりジュリーニが来てやるというので、みんな期待していたし、私の友人も、「もう少しいて、きいていかないか」と何度もさそってくれたのだが、遺憾ながら、必要あって日本に帰ってきてしまった。
果たして、どんな出来だったか?