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世界の指揮者70
日期:2018-12-14 22:42  点击:267
  こんな話からはじめるというのも、実は、今度、ジュリーニのレコードをきいてみて、最近の、というか、彼がシカゴ交響楽団といっしょに入れたベートーヴェン、ブラームス、マーラーといった曲のレコードのほうが、たとえばロンドンのフィルハーモニア・オーケストラと合わせたモーツァルトなどより、一段と迫力があり、音楽として力強いうえに、何というか本当にしっかりした手応えのあるものになっているのに気がついたからである。
 ただし、そのジュリーニの演奏をあれこれいう前に、シカゴ交響楽団とのレコードでのオーケストラの各パートの分離の良さに、まずふれておく必要があるかもしれない。というのも、私はレコードの録音だとかその他の技術については皆目不案内なので、これらのレコードでの目ざましいばかりの音の分離が、果たして指揮者の要求か、それとも録音の技師の考えか、あるいは、シカゴ交響楽団の音楽家たちの望みなのか。そういう点が、判断できないからである。
 ベートーヴェンのレコードは、『第七交響曲』であるが、私はかつてミュンシュがボストン・シンフォニーをひきいて東京に来た時、『エロイカ交響曲』をきいて、各パートが実に鮮明にきこえてきて、まるでスコアでもみているような印象を与えられ、びっくりもし、やや不満に思ったものである。ベートーヴェンの音楽では、何も低音や中声部が必ずしもいつもこんなに自分を主張して出しゃばる必要はないのだから、と。だから、このシカゴ交響楽団とジュリーニの演奏も、実演でも、やっぱりあんなに各声部の分離がすごいのかもしれない。そのうえに、各部がまたすごくうまいのである。ライナー当時はともかく、マルティノンのころのシカゴ交響楽団がこんなにうまかったとは考えにくい。とすれば、もちろんメンバーの交替もあるにちがいないが、それだけでなく、ジュリーニという人は——かつてのイタリア国立放送合唱団の場合同様——楽団を育て訓練するのがよほどうまいのであろうか、という気もしてくるのである。パートの分離のよいのも、そういう各パートの奏者の充実と関係があるのかもしれない。『第七』でいえば、第一楽章の導入部での各パートによる音階の上昇の一つ一つの鮮明で、しかも実に音楽的にきちんときこえること。あるいはヴィヴァーチェの主要部に入ってからの、スコアでいって第一一九小節以下の第二ヴァイオリンの動きを例にとってもよい。それはもうただはっきりしていて小気味がよいというよりも、むしろ晴れやかで誇らかなイタリア的ブリオの典型的なもの、初夏の颯爽《さつそう》たる一陣の風の疾走のような趣がある。それでいて、実に粋《いき》なのである。こんなに野暮ったらしいものの少ないベートーヴェンは、ほかにいつ、きいたことがあったかしら(譜例1)。
 同じような誇らかで颯爽たる歩みの鮮かさは、展開部に入って、長い長いのあと、しだいにクレッシェンドしてにいたる、ダイナミックのもり上がりにもみられる。ここにもまた、各パートの分離の鮮かさに少しも劣らぬ、目のさめるような鮮烈さがある。
 もう一つの美徳は、第四楽章のアレグロ・コン・ブリオでのテンポの初めから終わりまで実にしっかりした骨格をもった処理である。ここには少しも曖昧《あいまい》なものがないし、それと同じくらい、各楽想の表現の性格がきっちり区別されている。
 以上だけだと、まことにすごい演奏ということになるし、事実またこれは非常に水準の高い演奏にはちがいないのだが、私が不満なのは、一般にの表情に何かが不足していることである。ここにある微妙なものが欠けている。その最も目につく個所としては、スケルツォのトリオを上げることができよう。これが、どうして、こんなにつまらないのか。陰影がたりないからか。同じ憾《うら》みは、また、第一楽章のコーダに入ってからの音楽の処理にも感じられるし、終楽章のコーダも、その弊を脱していない。これさえ、うまくできていたら、私は、もっと夢中になるだろうに。
 しかし、この点を除くと——というより、曲をきいて、すぐわかるのは、ここで指揮している人が、そのへんにいくらでもいるような指揮者とは、ちがう、ほとんどもう大家といってもよいような人だということである。幅と厚みの手ごたえがあるのである。そうして、そのうえに先に書いたたっぷりしたブリオがある。

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