バルビローリでは、私はほかに、モーツァルトやR・シュトラウスもきいた。ことにシュトラウスの『ドン・キホーテ』はおもしろかった。つまり私の知っているバルビローリは、ロマン派の音楽の名指揮者だったのである。
実は、私はバルビローリについては前にも多少書いたことがあり(『吉田秀和全集』第五巻所収の「バルビローリ再説」参照)、今度、もう一度このイギリスの名指揮者を扱うについて、以前書いたものを、斜めに走り読みしたのだが、あすこではブラームスの四つの交響曲のレコードを中心に書いていながら、『第二交響曲』について一口もふれていないのに気がついた。
ついでに書いておけば、私はブラームスの四曲の交響曲では、まさにこの『第二番』が最も好きなのだ。それなのに、この曲には一言もせず、『第三交響曲』の演奏をやたら賞めたりしている。おかしなことだと考えレコードをひっぱり出してきて、きき直してみた。
そうして、針をおろして、それこそ数秒もしないうちに、はっきり思い出した。私は、この演奏がまったく気に入らなかったのである。それはもう、初めの第一小節のチェロとコントラバスがユニゾンでd・・d‐aとやる(譜例1)、その演奏からして、もう、いけないのである。どうして、こんなに重苦しいテンポではじめ、第二拍子に向かってクレッシェンドし、それから第三拍子でディクレッシェンドするのか? こういう出だしのうえに、以後、どこをとっても、すべてが重苦しいばかりでなく不自然なのである。
なるほど、この出だしは、よくレコードではうっかりすると聞こえないくらい、やたらと弱く(まるでか、人によってはであるかのように誇張して)演奏している例も、それも大家の指揮の中にも、少なくない。そうなっても困る。この小さなモティーフの中に、全交響曲の萌芽《ほうが》があるのだから。だが、だからといって、それをこんなふうにとりだしてきて、強調する必要はまったくないのである。そうやる理由がないからこそ、ブラームスはただと書いたのである。そうして、あとのほうで、必要になってきた時は、ちゃんと、mp esp.と書き(第四七七小節)、またさらに、その先までクレッシェンドもさせているのである(第四八五小節)、そうしてここではのエスプレッシーヴォやクレッシェンドの意味はまったく明らかであり、論理的でもあれば、美しく効果的でもあるのである。
私は、バルビローリの指揮には、これで、ひどく失望した。それで私は一言も、ふれなかったのである。第一楽章がつまらないためばかりでもあるまい。あと第二楽章も、きいてみたが、さっぱり。それで、私は、中途でやめてしまったのである。
それを思い出した私は、改めて『第三交響曲』のレコードもかけてみた。こちらは悪くない。ことに終楽章の、そのまた終わりのコーダは、本当に灰色の憂鬱に閉じこめられた世界の音楽だ。
私は、あの小論を書いた時、自分がまったく聴き方をまちがっていたわけでもないのを知って、失いかけていた自信をややとりもどした。それに、せっかくヴィーン・フィルハーモニーというすばらしい楽器を手にして、ブラームスの指揮に失敗するようでは、名指揮者もないものではないか!
だが、もう一度考え直すと、ブラームスの『第二交響曲』という曲、私はこんなに好きなのに、ベームの指揮できいた以外に、かつていつ、本当に満足したことがあっただろうか?
私は、あちこちかきまわした末、ベームのレコードをとり出してきて、かけてみた。
レコードは古く、おまけに、私がかつてさる私立大学に奉職していたころ、学校のすりきれた針で何回もかけたので、やたら傷がついてしまっていていやな音しか出ない。それにもかかわらず、何とよい演奏、何と暖かい音楽だろう。すべてが安定している。すべてが自然である。ブラームスの交響曲に関しては、私にはベームが一番好きな指揮者ということになる。ブラームスは、妙ないじり方をされると、きくに耐えぬ退屈で不自然なものになる。甘ったるくて、陳腐なロマンティシズムの音楽になってしまう。たとえばリズムの扱いにしても、何か前もって作られたパターンに合わせて組み合わせられた感じだし、シークエンスもやけに多いし。それが、しかし、ベームのような人の指揮できくと、すべてがおさまるべきところにおさまり、学殖があるだけでなく情感にみちた正直な音楽になるのである。ベームの指揮した『ハイドンの主題による変奏曲』の演奏など、果たしてどんなものだろう? どうして、この曲のレコードがカタログには見当たらないのだろうか?