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世界の指揮者75
日期:2018-12-14 23:09  点击:305
  ラファエル・クーベリックは、一九六五年だったか、ミュンヒェンのバイエルン放送交響楽団をひきいて来日したので、日本のファンの中にも、その指揮姿に接した人が少なくないはずである。それに、この人には、レコードもたくさんある。
 私がこの人で特に好きな点、特に尊重している点は、いつも、何を振っても、彼自身でいるというところである。というと恐ろしくエキセントリックな人物と思われるかもしれないが、そういう意味ではない。どんな時でも、ハッタリがなく、自分を偽り、自分を隠して自分以外のものにもなろうとか、あるいは無理に背伸びして自分以上のものになろうなどとしない、という意味である。これは、どんな名指揮者にもいつもみられるとは限らない美徳である。いたずらな虚栄心をもたない人だといってもよいのかもしれない(もちろん、彼ほどの国際的に知名な芸術家で、ことには指揮者という仕事のうえからいっても、まったく虚栄心がないとかいうのは、まちがいにきまっている。それでは聖者になってしまう。だが、たとえば、日本の若いヴァイオリニストの塩川悠子にストラディヴァリの名器をよろこんで貸し与えているなどという挿話《そうわ》の中にも、この人の私心の少ない人柄、好きを好きと認める心の働きが率直に出ているように思えるのである)。
 クーベリックのレコードは、私も考えてみると、わりにあれこれときいてきたようだ。その中で、まず上げるとすれば、マーラーのものである。バルビローリの項でも簡単にふれたが、現代のマーラー指揮者の中で、ショルティを最もテンペラメントに富んだ、そうして最も近代的なエスプレッシーヴォ・スタイルの指揮者の最右翼に数えるとすれば、クーベリックは、そのショルティとも、それから熱狂的で、しかも同時に、知的というより頭脳的で、ときによると、ややこしらえものじみた気味がないわけでもないバーンスタインとも、全然ちがった一角を占める代表的存在である。クーベリックのテンポは、マーラーをやる時でさえ、よく流れ無理がなく、力強くて、甘さの少ない、というよりむしろ渋いアクセントをもっているので、レコードできいても、ほかの人びとと比較的よく区別できる。しかも、マーラーの音楽の詩味がけっして失われていないのが、この人でよい点である。表現は自然で健康で無理がなく、マーラーというと、とかく指揮者が陥りがちのセンチメンタルな誇張が用心深く避けられている。深刻癖もないし、おそらくクーベリックは現代のマーラー指揮者の中で、「最もリアリスティックなマーラー」をやる人といってもよいのかもしれない。ただ、問題は、果たしてマーラーの音楽の中核に、クーベリックが用心して避けているものがなかったかどうか、である。そうして、これは人によって議論のわかれるところだろうが、私は、彼のマーラーをきいていて、ときにもう少し緊張力に富んだ、きくものの肺腑《はいふ》にくいこんでくるようなところがほしいという気になるということも、つけそえておきたいと思う。それだけにまた、マーラーのレントラー、本当に「ボヘミア的」田園的なものへの憧《あこが》れと回想から生まれたかに思われるような楽章の演奏となると、ほかの誰からもきかれないような安らかさとポエジーの均衡がきかれる。こういう時の演奏を、もしマーラー自身がきけたとしたら泣いたかもしれない。ここには、ある種の《無垢《むく》》と《素朴》がまだ辛うじて、生き残っている。
 クーベリックには、ほかにもヴァーグナー(特に『ローエングリン』の全曲)やドヴォルジャークその他の名演があることは、私が書くまでもないだろう。こういうものをやる時でも、彼は——前に書いたように——同じだ。だが、私は、そのクーベリックで本来ならドヴォルジャークとか何かのほうがぴったりすると考えられるのに、かえって、マーラーにひかれるのである。
 

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