カラヤンの指揮も、はじめてその姿に接したのが、一九五四年、私がヨーロッパに旅行した最初の時以来だから、もうそろそろ二十年近くになる。その後、私は何回かあちらに出かけ、出かけるたびに、どこかしらで彼の指揮する音楽会にぶつかったし、またカラヤンのほうからも、その間、何回か日本にやってきたりしたものだから、結局、今までに合計して何度きいたことになるのか、それを数える手がかりも、そろそろなくなりつつあるというのが正直なところである。
ということは、一つには、それだけでカラヤンの演奏会が多いというか、世界を股《また》にかけて、始終どこかここかで音楽会をひらいているということになるわけだし、もう一方では、私のほうでも、何の彼のいいながら、彼の指揮で音楽をきくのが好きなものだから、機会があれば、彼の演奏会に出かけていったということになる。
では、どうして、私はカラヤンをよくききにいったか? カラヤンの魅力はどんなところにあるのか? といえば、少なくとも今の私にとっては、彼の棒できくと、音楽がいつもらくらくと呼吸していて、ちっとも無理なところがないというのを、まず、あげたいと思う。そうして、これは近年になると、ますます目立ってきた傾向と、私は思っている。
といっても何も、私がはじめてきいた時には音楽に無理強いするところがあったというわけではない。その時は一九五四年の秋のベルリン芸術祭の一環としてのベルリン・フィルハーモニーの演奏会で、プログラムにはモーツァルトの『第三十九番変ホ長調の交響曲』とかバルトークの『ピアノ協奏曲第三番』とかがあった。その中でも、とくにモーツァルトの印象が強くのこっているのだが、それは何ともいえず颯爽《さつそう》とした、繊細だが、しかし、けっして弱々しくない、むしろ勁《つよ》い筋の一本通った演奏だった。それをきいただけで私はカラヤンに感心してしまったようなものである。それに、私は今でも覚えているが、カラヤンの演奏には、モーツァルトを、こういじる、ああいじるという作為の跡が少しもなく、むしろ、モーツァルトの音楽に導かれて、それに忠実に演奏するよう心がけているとでもいった趣があったのである。
それにもかかわらず、今から思うと、それがまたあまりにも隙なく見事にまとまった姿をとるにいたっていただけに、かえって、そこからあらかじめ用意された写真の像が鮮かに浮かび上がってきたといってもよいような、そういう矛盾した感想を与える余地のあったことも事実である。というのも、音楽が、荘重できびしく、非常にゆっくりしたアダージョの導入部から、アレグロ(モーツァルトの指定は、アレグロとだけしかなかったはずである)というよりモデラートの主要部に入ってゆく第一楽章から出発して、ハイドン流の小さなリズミックな音型による主題が、栗鼠《りす》か二十日鼠《はつかねずみ》かみたいにきわめて敏捷《びんしよう》にかけまわる終楽章に向かって、基本的にいって、テンポも上り坂をかけのぼるように上昇するし、音楽のさまざまのエネルギーも全体としてその方向を目標に集中してゆくようにできていたからである。正直いって、私は今、それを完全に明確に記憶しているわけではないが、その時のことを思い出そうと努めれば努めるほど、私のきいたのは、たしかにそういう音楽だったという気が強くしてくるのである。というのも、もう一つ傍証というか、この気持を強める材料があるからで、それは、大分古いレコードだが、かつてカラヤンがヴィーン・フィルハーモニーを指揮して『第四十番ト短調の交響曲』を入れたものがあり、それは私がひところ、とりわけ好んできいたものなのだが、ここでは第一楽章のアレグロ・モルトに比べて終楽章のアレグロ・アッサイがずっと速くなっているのであるが、それだけでなくて、音楽としての流れが、まるでベートーヴェンの『第五交響曲』のように、終楽章に向かって集中し、高まってゆくように設計されているのが、はっきりわかる演奏になっているのである。それに、第一楽章では悲劇的でありながらも、そこに一抹《まつ》の優雅な趣が漂っているのがこのレコードでのカラヤンの演奏の大きな特色になっているのだが、終楽章では、もうそういうゆとりもなく、痛切を極めた悲嘆のほかは、すべて黒い情熱がうずまくばかりとなってしまっている。
私がはじめてきいた時のは、いわばそういうカラヤンであったわけである。