カラヤンは、先ごろまたベルリン・フィルを相手に、モーツァルトの、『ハフナー』『リンツ』以下、いわゆる最後の三大交響曲にいたる、全部で六曲をレコードにいれているが、これをきくと、この間にカラヤンが経た変化の核心がわかる。
その一つが、先に私の書いた何よりもらくらくとした、自然で、無理のない音楽を尊ぶ態度をますます明確にしてきたことである。今度のレコードでは、ト短調の交響曲も、変ホ長調のそれも、両端の楽章は、それぞれ、曲の頭と結びにすえられた円柱のように、ゆったりと安定した姿で、堂々と立っている。しかもそれが、押してもひいてもびくともしないような安定性を獲得しているのは、どこにも無理に力を入れた跡がないからである。こわばったところが少しもない。
それは、カラヤンの指揮ぶりにもみられる。もともとが非常に柔らかな肉体《からだ》つきであることはよく知られているが、彼の動きは完全に自然で、近年になってからは、両腕が肩より高く上げられる場合は、皆無ではけっしてないが、かなり稀有《けう》になっている。
こういう身体の動きに応じて、音楽も自然に流れ、だからこそ、音に安定性が生まれてくることは、重ねていうまでもないだろう。よく人びとは、カラヤンが巧妙なショーマンで、音楽をやる時、背中に聴衆の目を完全に意識し、演技していると悪口をいう。たしかにそういう時もあっただろうが、現在の状態でみると、彼はもうそういうことを超越してしまっている。どういう効果が生まれるかは、それを追求している時こそ、おもしろいだろうが、どうやればどうなると完全にわかってしまい、その後も十年以上も全世界にわたって、何百回となく指揮して歩いている人間にとっては、そんなことは今さら気にするもしないもなくなってしまっていて、当然だろう。