新劇俳優
新劇俳優というものを、ごく間近に見たのは、中学二年の時である。
何かの用があって、いつもは大塚窪町の裏門から帰るのを、その日は、小学校の校庭を横切り、氷川下の裏門へ抜けるはずであった。
放課後の小学校は、しんとしている。講堂の脇を通る。ふと頭を上げると、高い窓硝子ごしに、異様な人影が見える。
縮れた長い髪、抜け上った額、高い鼻、大きな眼玉。口髭を生やしている。おそろしく派手な柄の上着を着ている。マフラーをしている。どう見ても、西洋人である。
まわりに、四、五人、金ボタンの師範の学生がいる。
私は好奇心を起して、後戻りをし、講堂の入口の石段を上った。扉のかげから、覗き見をする。
異様な人物は、手に二本の剣を持っている。ますます西洋人のようである。
低い、聞き取れない、静かな声で、物を言う。やがて、一本を学生に渡し、自分も剣を構える。長い片手が高く上り、長い片足がすらりとうしろへ伸びる。一合、二合、三合。学生に腕を刺され、異様な人物は、獣のように素早く身を引きながら、腕を押え、剣を取り落す。同時に、学生も剣を落す。
そこが学生はうまくゆかない。異様な人物は、低い、聞き取れない、静かな声で、優しく、言い含めるように、注意を繰返す。
今度は、自分が刺す側に廻る。一合、二合、三合。すさまじい気迫の一撃。と同時に、放心したように、ばたりと剣を落す。中学生は見とれてしまう。
「じゃあ、こんどはせりふと一緒に」
剣を学生に渡しながら言う。金ボタンの学生が二人、向い合って剣を構える。
"Then, brrrrr!"
"You, shrrrrr!"
なるほど。師範の学生たちが英語劇の練習をしているのだ。
それにしても、どう見ても生粋の、典型的な日本人の学生たちがへんな英語をしゃべり、西洋人のような異様な人物がやわらかい声で流暢な日本語をしゃべっているのは、奇妙な取り合せだ、などと考えていると、異様な人物が、こちらを振り向いたので、私はびっくりして、扉のかげから身を退いた。
氷川下の裏門への坂道を下りながら、私は心中で呟いていた。
——知ってるぞ。あれはシェイクスピアの「ハムレット」だ。最後の決闘の場で、ハムレットが毒を塗った剣で刺される所なんだ。あの西洋人みたいな人は、きっと新劇俳優に違いない。一体、誰だろう?……
その疑問が解けたのは、大分後のことである。
邦楽座《ほうがくざ》へ、映画を見に行った。
一幕物の創作劇を、一緒にやっていた。当時は、そんな形の興行が、珍しくなかったのである。アトラクションと称した。
見覚えのある、異様な人物が、着流しの和服で出て来た。
芝居は、水木京太作「フォード驀進《ばくしん》」
舞台裏から聞えてくる肝腎のフォードの、エンジンのかかる音が、オートバイのそれだったので、客席はくすくす笑いをした。
兵児帯をだらしなく巻きつけた着流しの和服の、その口髭を生やした主人公は、自動車でも、オートバイでも、要するに似たようなものじゃないか、とでも言いたげに、悠然と芝居をしていた。
その人は、東屋三郎。今の人には耳遠い名前だろうが、築地草分けの名優の一人である。その人の舞台を見たのは、それが最初で、最後であった。
同じ邦楽座で、間もなく、もう一人の新劇俳優を、間近に見た。邦楽座は今の有楽町のピカデリー劇場の前身で、今よりは大分いい劇場であった。
小津安二郎監督が、「ひとり息子」という映画を作り、その試写会が邦楽座で行われた。学生だった私が、その試写会に招かれたのは、その映画が、冒頭、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中から、「人生の悲劇の第一幕は、親子となったことにはじまっている」という一句を、字幕として掲げた故である。小津氏はこのサブタイトルを、作品に不可欠なものと考えられ、当時助監督のチーフだった原研吉氏を介して、その使用を申し入れて来られたのだった。
母と一緒に、私は、原さんから紹介されて、小津さんに挨拶をした。やがて、私は一人廊下に残った。たぶん母は、一と足先に、客席へ入ったのだろう。私は窓際で、プログラムを読んだり、向うの電気博物館だか何だかの建物の方へぼんやりと眼をやったりしていた。
すると、誰かが、私を見ているのだ。見られている。
何ということなく、誰かに見られている、と感じて、振り向くと、そこに果して自分に視線を当てている人間がいた、という体験は、それほど珍しい体験だろうか。
振り向くと、二メートル程の所に、こちらを見つめている人がいた。
紺の背広を着ている。蝶ネクタイをしている。ハイカラな面長の、色の白い顔が、じっとこちらを見つめている。
すぐ分る。友田恭助である。
私はドギマギする。
私はそんなにうさん臭い様子はしていないつもりである。誰かと見間違えているのではあるまいか。あるいは、見覚えのある誰かの顔を、私の顔の中に探しているのではないか。こちらにして見ればむろん写真や何かで見覚えはあるけれど、困るじゃないか、そんなに見つめられては。
友田恭助は左の肩ごしに、じっと私を見つめ、時々、彼の話相手の方へ顔を向けては、またこちらへ視線を当てる。
その眼つきは、何だか、動物園へ到着した新しい珍種の獣を見るようで、こちらは照れ臭いような癪にさわるような気分になり、その内ベルが鳴ったのを幸い、私は逃げるように客席へ入った。
その後「秋水嶺」の山口壱策を演じる友田を見た。やはり私にとっては、最初で最後の舞台姿であった。
あの時分の新劇は一体に泥くさく、垢抜けのしない舞台が多かった。ことに翻訳劇となると、洋服が身につかず、イヴニングやタイツ姿は見るも無惨であった。せりふもなまりの強い人が多く、ずいぶん味気ない思いをしたものだ。
ところが、ふだんの生活では、新劇俳優というものは、地味と派手との差はあっても、概して今よりもハイカラだったように思われる。ダンディスムが生きていたように思う。
東屋三郎や友田恭助は、そういう中でもダンディスムを人一倍大切にした役者ではなかったか。たった一度きりの舞台であるにも拘らず、だらしなく兵児帯を巻きつけた「フォード驀進」の主人公ののろのろした足取りや、胡麻塩頭を畳にこすりつけるようにして名刺を差出す卑屈な山口壱策の姿が、未だに私の脳裡に鮮やかなのは、ただ単に表現技術の問題ではなく、かれら演技者・生活者としての姿勢が、その魅力が、よほど強かったからだろうと思われるのである。
——一九六九年一〇月 悲劇喜劇——