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決められた以外のせりふ12
日期:2019-01-08 19:42  点击:271
「新ハムレット」
 
 
 昭和十六年、太宰治の「新ハムレット」の初版が出た時、私たちは飛びつくようにして買って、何度も繰返して読み、この戯曲的小説あるいは小説的戯曲を上演することを、熱心に検討した。
 私たちというのは、加藤道夫、原田義人、鳴海弘、私の四人で、私たちは「新演劇研究会」という学生劇団の上演作品選定係なのであった。既成の新劇団の演目を追うことは、はずかしいことだと思っていたから、上演作品の選定は、いつもひどく難航した。
「新ハムレット」はほとんどすべての点で、私たちの気に入った。「ハムレット」のパロディーであるという点が、ことに、私たちの若い知的虚栄心を満足させたのである。
 しかし、いくらパロディーとはいっても、王が人を殺し、王妃が投身自殺し、総理大臣が劇中劇の女形を演じた末に錯乱して殺され、その娘が王子の子をみごもるというような芝居が、果して検閲にひっかからないかどうか、保証の限りではなかった。出版は許可されても上演は不許可という例が、めずらしくなかったころである。
 作品自体についても、問題があった。これは要するにレーゼ・ドラマではないか、とてもしゃべれたものではない。いや、そこがおもしろいのだ、などと、議論ばかりしているうちに時間切れになるのが学生劇団の常で、私たちはモリエールと阪中正夫の、それぞれ初期の作品を上演して、戦争に出かけていった。
 敗戦の翌年、加藤と私とは、思想座という劇団をつくり、その第一回公演に「新ハムレット」を上演する計画をたてた。加藤が「三田文学」に、思想座の結成について、宣言ふうのみじかい文章を発表した。
 二人の合作で、プロローグをこしらえた。幕明きの舞台に、シェイクスピアの亡霊があらわれて、こんな贋物《にせもの》を上演されては迷惑だ、と文句をいう。役者たち(私たち)が、あなたもよく用いた手じゃありませんか、と反駁《はんばく》する。たあいのない代物《しろもの》だが、その時にはどうしてもこういう「前書」が必要だと思いこんでいたのである。当時、どこかの劇団がトルストイの「闇の力」を上演したら、いつまで見ていても闇屋が出てこないので、がっかりした見物がいたという実話がある。
 その年の初夏、私は上演の許可を求めるために、青森県金木町の太宰治氏を訪問した。初対面だったが、氏はすぐに許可してくれた。私は氏がひっきりなしに話し、笑うのにおどろいた。
「戦争中に丸山定夫がウイスキーさげてやってきてねえ、『新・ハムレット』(と氏は新とハムレットとをはっきり区切って発音した)をやりたいと言う。クローディアスをやりたいのだ。きみはハムレットか? 丸山は広島の原爆で死んでしまったから、仕方がない」「劇とは、読んで字の如し。はげしいものだよ。チェーホフだって(と氏は津軽塗りの丸い卓のうえに指で書きながら言った)酷烈なものだ。あんなに静かな『伯父ワーニャ』でも、ちゃんとピストルが鳴るじゃないか。日本の新劇は思い入ればかりしてる。縁側から空をながめて、『ああ、秋だねえ』なんて。いやだねえ。何の意味もない」「日本の俳優はひとりも戦犯にならない。ルイ・ジュヴェをごらん。もしもあいつが対独協力してたら、きっと死刑だ。そういう顔してるよ。日本の俳優は、人格を認められてないんだよ、まだ。だめだねえ」
 氏の言葉のかずかずは、今も私の耳に残っている。
 しかし私たちはついに「新ハムレット」を上演することが出来なかった。思想座は、宣言だけして、何もしないで解散した。戦後生活の激動の中で、金のない非力な二十五、六歳の演劇青年たちはすっかりお手上げになってしまったのである。芝居をつづけるために、大きな新劇団に入った。やがて新しい作家たちの戯曲がつぎつぎに発表され、太宰氏の没後、私たちはあれほど思いつめた「新ハムレット」上演の意欲を、少しずつ、失っていった。
「新ハムレット」は私にとって、初恋の創作劇とも言うべき作品になっているようである。
                                             ——一九六五年一二月 朝日新聞——

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