緩い曲り角
どうも、開眼というようなはっきりした区切りが、自分の人生にあったとは思えない。西洋流に言うと「眼のうろこが落ちる」という所であろうか。残念ながら、そんな鮮やかな、一瞬の内に視界がにわかに開けるような思いをしたことは、一度もない。われながら、ずるずるべったりで困ったものである。
学生時代から芝居が好きで、友だちと劇団をこしらえ、自分たちで翻訳した戯曲を自分たちで演出し、役者も装置も、宣伝のポスター描きも、ついでにそれを貼って廻るのも、みな自分たちでやった。
戦争から帰って来て、しばらくは途方に暮れていたが、語学の家庭教師をしたり、翻訳をしたりしている内に、また芝居をはじめた。戯曲を書くか、舞台の実際にたずさわるか、腹をきめかねるまま、「麦の会」という小さな集まりをこしらえて、何となく芝居をやっていた。
すると、東京藝術劇場から、客演の申込みを受けた。久保栄作・演出の「林檎園日記」である。劇場は、今のではない、昔の小さな帝劇であった。
滝沢修、山本安英、森雅之の諸先輩と同じ舞台をふんだが、この劇場は、私が、小学校三年の時に、初めて新劇というものを見た劇場であった。その時の演目はレマルク作の「西部戦線異状なし」で、山本安英さんが若い娘の役で出ていたのを覚えている。その同じ舞台で、山本さんと一緒に芝居をしているのは、妙な気分であった。山本さんは、依然として若い娘の役であったから、尚更妙な気がした。
つづいて、文学座から口がかかって来た。岸田国士作「歳月」に客演しないか、という。岸田先生のお宅には、学生時代に、何度か伺ったことがある。戯曲はむろんのことだが、先生のお書きになる演劇評論には、鋭い創意と卓見があり、理想があり、私はほとんど心酔していた。私は二つ返事で、出演を承諾した。杉村春子、中村伸郎、宮口精二、三津田健の諸先輩といっしょに、名古屋、大阪で芝居をした。
実は文学座も、私たちにとってはすでに親しい存在だった。私たちの学生劇団の稽古場は、文学座と同じ貸席だったからだ。
やがて、文学座から、入座のすすめをうけた。戦後のインフレで、私たちの小さな劇団——というよりも研究会は、にっちもさっちも行かなくなっていたので、思い切って入座した。
岸田先生は、研究所の面倒を見てくれ、と言われる。大いにやり甲斐がありそうである。この期に及んでもまだ私は、舞台の仕事と書斎の仕事との、いずれを選ぶべきか、意を決しかねていたのである。書斎にいると舞台が恋しくなり、劇場にいると机へ帰りたくなる、というような気分であった。研究所で教える、戯曲の翻訳をする、演出をする、演技もする、目の廻るような毎日であった。
そうこうしている内に、だんだん、役者として使われる度数が多くなって来た。当時文学座は、戦争直後の新劇団の例に洩れず、若手の男優が不足していたからであった。私は、何となくずるずるべったりに、緩い曲り角を曲るように、役者になって行った。
むろん、うまかろうはずはない。杉村さんはじめ諸先輩から、さんざん叩かれている内に、だんだん、大きな役につくようになり、やがて大きな役ばかりつくようになって来た。つぎつぎと厚い壁の前に立たされるようなもので、とても、開眼どころか、眼の前が真暗になるような思いの連続であった。
「どん底」のサーチンを演じる舞台稽古の日、演出を担当しておられた岸田先生がお倒れになり、その夜、お亡くなりになった。
翌年、シェイクスピアの「ハムレット」を演じた。岸田先生に見て頂けないのが、無念であった。私は三十五歳になっていた。
——一九六九年四月 「〓」あなたは王様——