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決められた以外のせりふ14
日期:2019-01-08 19:44  点击:244
 読書のたのしみ
 
 
 大学の予科にいた時、国文学の佐藤信彦先生に、こう言われたことがある。
「夏休みには、長篇を読みたまえ。ドストエフスキーでも、トルストイでも何でもいい。好きな作家の全集を読破するなら、なお結構。読みたい時に、読みたい本が読めるのは、学生時代だけと心得てよろしい。社会へ出たら、なかなか本なんて読めるものじゃない。数を多く読むばかりが能じゃないが、仮に一日一冊読んだところで、一年間にたった三百六十五冊しか読めない勘定になる。今のうちに、精を出して読むことです」
 一日一冊はおろか、十日も二十日も一冊の本とにらめっこをしていた私は、大いに恥入って、その年の夏休みには、ドストエフスキー全集を読破する計画をたて、はじめの一日二日は、われながら感心するほどのスピードで「白痴」を読み進んだが、三日目になると、何を読んでいるのやらおぼつかなくなってきて、また始めから読み直し、夏休みの終った時には、やっと「白痴」一篇を読み終えただけであった。
 こう言うと、いかにも精読を事としていたように聞えるかも知れないが、その間、他の本は手あたり次第に読んでいたのだから、つまり、気まぐれなのである。
 おなじころ、チェーホフの「三人姉妹」を読んで、やはり、何度読んでも先へ進まず、困ったことがある。サリョーヌイという軍人だけが、どうしても霧がかかったように不分明で、得体が知れず、いくら読み直しても、ひっかかるのであった。そのうちにあきらめて、「伯父ワーニャ」を読み出す。こんどはアーストロフという医者が、何のことやら分らない。読めば読むほど、へんな気がしてくる。これもあきらめて、ほかの作家の本を読む。やたらに読んでいるうちに、また、どうもサリョーヌイが気になってきて、「三人姉妹」へ戻ってくる。学生時代には大体そんな具合に、乱読したり、一冊の本とにらめっこしたりを、繰返していたようである。
 学校を出たとたんに、ほんとうに本が読めなくなった。軍隊生活の三年間に、私の読んだ本はたった四冊で、しかもそのうちの二冊は、ふつうの意味では、本とは言えなかった。ひとつはクロースの装幀をした加藤道夫の生原稿の「なよたけ」で、もうひとつは、軍隊で知り合った友人のNがくれた手製の「斎藤茂吉歌集」であった。小さな皮表紙の手帖に、小さな丹念な字で魚や草や少女や自身の老境を歌った茂吉の歌が、数十首、清書してあった。二冊の活字本のうち、一冊は文庫版の「古事記」であった。これはずっと隠して持っていた。のこる一冊は、これも軍隊で知り合った友人のSが、隠して持っていたのを、借りて読んだ。三島由紀夫氏の処女創作集「花ざかりの森」である。
 私物の検査がうるさく、読む暇もなかったとはいえ、三年間にこれだけとは、われながら呆れるが、これで結構、間に合っていたのである。
 その後、私は相変らず、手あたり次第の乱読と、おなじ本にいつまでも首をつっこんでいる遅読とを繰返している。いっこうに進歩しないようである。べつにこれというあてもなく、考古学や建築の本を読む。歴史を読む。そのうちに、ついこの間読んだばかりの戯曲が、どうも気になってきて、また読み返す。読書の時間は商売柄もあって、佐藤先生の言われたほどには少なくなっていないようだが、それなら尚更、進歩どころではないことになる。せめて、読みたい本の読める商売柄をよしとし、堂々めぐりをしながらでも、本を読むことによって自分の中で霧のはれてゆくような、何かの得体が知れてくるような思いをするたのしみを失いたくないものである。
                                           ——一九六九年三月 新刊ニュース——

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