ラルフ・リチャードスン
初めて見たのは、「女相続人」の時である。一向に、感心しなかった。
オールド・ヴィック座の重鎮、イギリス屈指の名優、そんな先入観が、却って邪魔をしたとも思われぬ。「ヘンリー五世」ではじめてオリヴィエを見た時の感動とは、むろん、較べものにならなかった。
下手ではない。堅実な、写実的な演技だが、それが如何にも古風に見えた。一緒に出ている、これもはじめて見る若い俳優——モンゴメリー・クリフトという名前を、その時知った——の演技の方に、はるかに共感を覚えた位である。
「アンナ・カレニナ」の時も、同じ印象をうけた。いかにも、内面的で緻密《ちみつ》な演技だ。生きたカレーニンが、正に眼前に動いてはいる。しかし、見る者の眼と耳とを、心臓と頭脳とを、その生きた人物へ惹きつけ、離れ難くしてしまう魅力——いわば、人間的磁力が、はなはだ不足しているのである。充実していて脈動がない。もし、「文化果つるところ」を見なかったら、僕のリチャードスンに対する関心は、決して、これ以上に高まりはしなかった筈である。
「文化果つるところ」のラスト・シーンに近く、彼の扮する老船長が、旅から帰って、留守中の出来事を——トレヴァ・ハワードの扮する無頼の男が彼を裏切り、土人の女を連れて山中に籠ったいきさつをきく場面がある。彼は、苦渋の色を浮べて、人生というものは難かしいものだ、というような独白をする。気難かしい父親、頑固なカレーニン、相変らずのリチャードスンだ、と思っているうちに、カヌーに乗った老船長は、蕃地の川を溯《さかのぼ》り、単身、荒涼たる山中に分け入って、無頼の男と対面する。
彼はいきなり相手を撲りつける。そして、俺はお前を赦しも殺しもせぬ、赦すための愛も、殺すための怒りも、お前には勿体ないのだと、痛烈な面罵を加えたかと思うと、くるりと背を向けて、さっさと山を降りてゆく。拳銃を擬して追いすがろうとする相手に一瞥《いちべつ》もくれず、沛然《はいぜん》たるスコールの中を、再びカヌーに乗って去ってゆく。
この場面のリチャードスンの演技——悪の影を曳いた老船長の、神性とも魔性とも見きわめ難い異様な激怒の表現は、役柄の上ばかりでなく、相手のハワードを圧倒していた。あの写実的な藝が、これ程までの感情の昇華に堪えようとは。
トレヴァ・ハワードは、「逢びき」以来、僕の大へん気になっている俳優である。この映画を見たのも、半ばは、ハワードへの期待で見たようなものだ。むろん彼は、期待を十分に満たしてくれたし、今でも、あれはハワードの傑作の一つだと思っている。しかし、というより、それ故に、全体としては必ずしも傑作でないリチャードスンの老船長が、あの山の場面で、ハワードに勝る卓抜な演技を示したことは、僕にとっては、はなはだ印象的な出来事だったのである。
「落ちた偶像」の執事は、彼の演技の、最良の瞬間の連続のように見える。これは、よくよくのことだ。
妻が死ぬ。調査に来た警察官達は、はじめの内は、むしろ彼に同情的である。ところが、つまらぬ隠し立てから、彼は警官の不審を招く。それがまた、次の言い抜けを思いつかせ、言い抜けがまた一層疑惑を深める。だんだん喰い違いが多くなり、しどろもどろになり、到頭、自分でも全く収拾がつかなくなってしまう。
例えばこういう場面における彼の演技には、前に挙げた作品からはほとんど感じられない、柔軟で明晰《めいせき》な感情が、独特の精気とともに、流露している。充実していたものが、あくまで充実を極めることによって、そのまま脈動し、迸りはじめた感じである。見る者の心を惹きつけようとするあらゆる手段を、厳格に、執拗に、拒みぬいた演技が、逆に、見る者を惹きつけはじめる……
こんな風に書いてくると、リチャードスンにすっかり入れ上げてしまっているように見えるかも知れないが、そういう訳ではない。如何にも古風だと思った最初の印象は、「落ちた偶像」を見た後でも消えたわけではなく、今でもそう思っている。リチャードスンよりはオリヴィエの方が魅力的だと思うし、好きだというだけなら、リチャードスンより好きな俳優は大勢いる。
ただ、僕がリチャードスンに強い関心をもつのは、彼が、おそらくは、骨太な十九世紀風のリアリズムの演技の最後衛——それを守りながら、「現代的感覚」の演技の追い討ちと頑固に戦っている最後衛の、傑《すぐ》れた第一人者であるからに他ならない。
——一九五四年三月 スクリーン——