「マクベス」日記
七月二十二日
今日から「マクベス」の稽古。
ずいぶん早い稽古はじめだが、今月末から九月のはじめへかけて、「薔薇と海賊」の関西公演と「鹿鳴館」の東北・北海道公演とがあるので、このぐらいにしなければ間に合わない。福田さんから演出の意図について説明あり、「マクベス」が、生と死、勝利と絶望、観念と現実の絶えざる葛藤のドラマであることを強調される。
リチャード三世は現実的であり、酷薄であり、殺人を行うのに妖婆や夫人の助けを必要とせず、世間に正面切って生きている男だが、マクベスは人間の弱さをもち、率直で寛大なところさえあり、自分の殺した人間の死後の平和を羨んだりする。想像力が強く、自分だけの意識の世界をつくりあげ、その中で生きている男だという説明、なるほどと思う。
オールド・ヴィック一座の「マクベス」全曲のレコードをきく。マクベスはアレック・ギネス。マクベス夫人はパメラ・ブラウン。二人とも、映画でおなじみの役者である。
ギネスの恐怖、不安、絶望、憂鬱は、たしかにすばらしい。朗々たるデクラメーションから、低いささやくような調子に至るまで、みごとなものだが、「ハムレット」のときにきいた、ギルグッドほどには感動しない。あれは凄かった。
五時、「薔薇と海賊」楽屋入り。メーキャップをしながら、北村和夫と「マクベス」の話。そっちへ身が入りすぎて、靴下を穿きかえるのをあやうく忘れそうになる。
七月二十三日
颱風の荒れ模様の中で「マクベス」の稽古がはじまるのは、時宜に適っている。ほんものの電光や雷鳴に、マクベス夫人や妖婆達がほんものの悲鳴をあげ、読み合せはときどき中断された。稽古のはじめの頃は、こんな些細な事柄までが、活気と感興とを添える。
「マクベス」は五幕悲劇だが、「ハムレット」と同様、こんども三幕になおしてやる関係上、場割が変更される。どこで区切るかは、まだ未定の由、カットはほとんどないだろう。
はじめての読み合せの感じでは、マクベスは、芯の疲れることおびただしい役になりそうだ。
おなじ悲劇の主人公でも、ハムレットは、物思いに沈んでいるかと思うと忽ち快活になるという風に、動きと感情の変化に富んでいた。それはそれなり、疲れることだが、何もかも吐き出してしまう爽快な疲れだった。マクベスはそうはゆかない。登場すると、いきなり妖婆の予言をきく。いきなり「この得体の知れぬいざなひの声、善とも悪ともいへぬ。……恐ろしい、思つただけでも身の毛がよだつ」ということになり、そのままダンカンを殺し、バンクォーを殺し、その亡霊に脅やかされ、妖婆に再会し、遂に破滅するまで、この男は、気の紛れるということがまったくない。福田さんのいう通り、マクベスは笑いを知らない。
さて、どうしたものか。稽古の初日、二日目ごろのたのしさは無類のものだ。後はだんだんいけなくなる。舞台稽古で苦痛は極度に達し、初日には震えがくる。
七月二十四日
昨夜、颱風十一号襲来。瓦が落ち、薔薇がやられている。被害のニュースにつづいて、十三号接近の予報あり。
オリヴィエは、マクベスの、自分だけの意識の世界をつくりあげ、その中で生きているという、いわば詩人的気質を強調して演じた由。声も、悪人らしからぬ高い冴えた声で演じた由。写真で見ても、いかにもそうだったろうと思われる顔をしている。
ラルフ・リチャードスン、アンソニー・クウェイル、ゴッドフリー・ティアール、ポール・ロジャース等の舞台写真を見る。ロジャースの終幕の写真が、ずば抜けていい。「気が狂ったといふものもある」「足元に黄ばんだ枯葉が散りはじめ、老いが忍び寄つて来」ているマクベスの卓抜な表現。
ダンカンを殺して王位につくまでのマクベス、バンクォーを殺して亡霊に脅やかされ、妖婆を訪れるマクベス、ダンシネイン城の絶望的なマクベス。いつも気の紛れない、変らないマクベスの、三つの季節。稽古の終る頃、天候回復。今夜のお客様は大変だろうと思っていたが、まず、安心する。
墓参せず。
八月十八日 釜石
「鹿鳴館」の旅の初日。蒸暑く、おまけに冷房のない小屋なので、汗がとめどなく流れ、三幕で髯が剥《は》がれた。
「マクベス」の頃は、かなり涼しくなっているはずだが、まず、今日ぐらいの汗を毎日かくものと思っていていい。髯は、テグスで吊ること。
八月二十一日 洞爺湖
体重、十五貫五百。好調。
短剣の場の独白の中のせりふ、「やせさらばへた人殺し役が、見張りの狼に起されて」というのは、マクベスの心に浮んだ現在の彼自身の姿であろうが、初演のときのマクベス役者は、痩せていたか、肥っていたか。ハムレットについて王妃のいう「あの子は肥つてゐて疲れやすいから」というせりふも、実は初演のハムレット役者が肥っていたところから書かれたせりふだという説があるくらいだから、こちらにもそんなことがあるかも知れぬ。
九月十日
「マクベス」の稽古再開。
幕の区分は、第二幕第四場までが〓、第四幕第三場までが〓、以後が〓となる。これはマクベスの心の三つの季節に、ぴったり一致する区切り方だ。
声が、まだ定まらぬ。長い独白は単調で、激情的な場面は声ばかり大きく、息切れがする。しっかり話そうとすると若くなり、神経質な心の動きを抑えようとすると、まるで感情が死んでしまう。
九月十二日
あたりまえなことだが、せりふに書かれていることだけをしゃべらぬことが大事である。
終始一貫したマクベスの生命をつかみ、せりふが全部、そこから出てくるという風にならなければいけない。
みごとなせりふには、役者を陶酔させる魔力があるから、ことに危険である。
たとえば、「このおれは、頭には実らぬ王冠、手には不毛の笏《しやく》、つまりは赤の他人にもぎとられ、一代限りで終らせようという魂胆か」というようなせりふを、ずいぶんいい加減な、外面的な、借りものの感情でしゃべっていながら、自分では結構、ちゃんとしゃべれたつもりでいたりする。実はちゃんとしていたのは元のせりふだけで、マクベスのせりふは「赤の他人にもぎとられ」ることは決してないのである。
九月十三日
福田さんから、マクベスのせりふ、一体にテンポが速すぎると注意される。福田さんの演出で、もっとゆっくり、と言われたのは、たぶんこれがはじめてである。
ゆっくりやってみたら、ただ無闇に間のびがするような気がして、落着かなくなった。
三人の妖婆がそれぞれにおもしろい。
ウィッチの出てくる芝居は、イギリスやドイツにあってフランスには余りないようだ。
九月十四日
幕の区分、第四幕第三場以後を〓とするよう、改められる。
〓の16、マクダフ夫人殺しの場に、「刺客たちが姿を現わす」というトガキがある。ここは、マクベスも出た方がよさそうだ。その旨、福田さんに進言する。
妖婆の洞窟で、予言をきいた後、マクダフの逃亡を知ったマクベスは「もうこれからは、心に浮んだ初物はきつと手にも食はしてやるぞ……マクダフの城に不意打ちを仕かけ、ファイフを乗つとり、やつの妻子をはじめその血をひく哀れな奴どもをかたはしから刀の錆《さび》にしてくれるぞ」と言っている。
マクベスがこの場へ顔を出すことは、ダンカン殺し、バンクォー殺しの場と照応して、「時の階《きざはし》をずり落ちてゆく」マクベスを、マクベスのたどる筋道を、はっきり示すことにもなる。
今日は、登場の最初のせりふと、殺される前の最後のせりふだけ、うまくしゃべれた。変な日だ。おしゃべりのハムレットの最後のせりふは「もう何も言はぬ」。人殺しのマクベスの最後のせりふは「地獄落ちだぞ」。
九月十五日
具合のわるいところ。
3、妖婆との出会い。予言をきいた後の意識がはっきりしすぎる。悪事への予感が、濃く出ない。
7、宴会の中庭。不安動揺の独白、単調、表面的。
8、ダンカン殺し。独白、流れない。恐怖に堪えながら自分を殺人行為に駆り立ててゆく気組みがない。
決行後の恐怖、絶望のせりふ(「マクベスが眠りを殺した」など)はなはだ図式的。おおげさで、中身がない。
発覚後の貴族達に対するせりふ、内心の動揺が出ない。
10、刺客の場。刺客達に対する王としての余裕がまるでない。夫人に語る二つの独白的なせりふは、そのイメージ(「僧院の中を蝙蝠《かうもり》が飛びかひ……」など)が出ない。
12、亡霊出現の場。せりふ、すべてただ怒鳴っているだけ。しかも息切れがしている。
15、妖婆の洞窟。12におなじ。
20、ダンシネイン城。12におなじ。
22、同。独白単調。
23、同。12におなじ。
つまり、ほとんどすべて具合がわるいことになり、はなはだ面白くない。「友がみな」という啄木の歌は、こんな気分から生れたのかもしれぬが、こっちは花なんか買ってる暇はない。
九月二十日
立稽古。せりふの完全に入っているのは妖婆達だけである。
九月二十三日
マクベスは、鉄の鎧《よろい》を着て、馬から降りて歩いてくる。腰には重い剣を吊っている。
マクベスは、黄金の重い王冠をいただいている。
マクベスは、重い楯をひっさげ、血まみれの重い剣をふりかざす。
九月二十四日
まったく、息をつく暇のない役だ。早くも8ですっかり汗をかく。12で、またびしょ濡れになり、15では、最初の一言でもういけなくなる。タテがつけば、ダンシネイン城などは、眼もあてられない程の汗になるだろう。せりふをはやく入れなければならぬ。稽古中の昼食を抜きにしないこと、規則的にすること。メーキャップのスケッチをする。
九月二十六日
せりふ、〓は短剣の独白のほかはまずまず、〓がまるで入っていない。〓もだいぶあぶなっかしい。いつも早く入る方なのだが、今度はなかなか入らない。読み合せの期間が短かったせいもあるだろうが、役をつかむのが遅れたせいでもある。それにしても「元帥杖をよこせ、シートン」というせりふを「シートン杖をよこせ、元帥」と言ったのには我ながらがっかりした。シートン役の稲垣昭三、舞台上に文字通り抱腹絶倒する。
九月二十九日
〓の導入部、手ごたえができてきた。短剣の場、どうもうまくゆかず、福田さんと相談して動きをいろいろかえてみることにする。ここはよくよく念を入れる必要がある。
亡霊出現の場、洞窟の場、いかにも気が変らなすぎる。
三井山彦氏の指導で、タテがはじまる。中世風の重い剣の立廻りだから、こたえる。
九月三十日
群衆場面の細部の仕上げ。こういう場面では、若い連中は、演出家が手こずる程、どんどん自発的に動くべきだ。何から何まで演出家まかせは、演出家を信頼していることにはならぬ。
十月二日
せりふほとんど入る。
靴(焦茶の裏皮の長靴)が来たので、早速穿いて稽古をする。「シェイクスピアは裏皮ときめてるらしいよ、この人は」と、小池朝雄が茶々をいれる。ハムレットの短靴も黒の裏皮だったからだ。
踵《かかと》の注文は大体うまくいっているが、すこし高すぎたようである。先が細いわけでもないのに、ダンシネイン城の立廻りの頃になると爪先がしめつけられてくるのは、そのためらしい。直してもらうほど、痛いわけではないが、対策を講じる必要がある。
早目にたのんでおいた衣裳とかつらが、出来上ったというので、稽古後、メーキャップをする。
買ったばかりのノーズ・パテが、材料がわるいのか、製法がわるいのか、ブツブツちぎれて、全然使いものにならぬ。使い古しのパテのかけらはあるが、足りそうもない。わざわざ新しいのを買いにゆくほどのこともあるまいと思案していると、有馬昌彦が、チューインガムでも結構間に合うと教えてくれた。チューインガムの鼻なんて、はじめてきいた。おもしろそうだから、買ってきて噛むと、いやに甘くて、どこまでも噛めて、後に何ものこらない。子供用のチューインガムなる由。呆れた代物である。
二度目のガムは、うまくいった。ちゃんと鼻の形になるし、粘着力も多少はある。ところが、不用の部分を箆《へら》でけずろうとして、おどろいた。チューインガムが本性をあらわして箆にくっついて伸びてくる。指でつまんで引っ張ったら、切れるどころか、根元の方が太くなり、やがて、膜状になり、それが裂けて滝の白糸のような状態になっても、まだ切れない。チューインガムとしては優秀なのだろう。ばかな話で、結局、古いパテのかけらで我慢した。
衣裳は気に入った。かつらもいい。うしろをもう少し長くして、カールすること。髯は、いいニスを入手したので、テグスの世話にならずにすむだろう。
しかし、まだ肝腎なことで、気に入らぬことがある。あと一週間。
——一九五八年一一月 藝術新潮——