ジャン・メルキュール氏の稽古
ジャン・メルキュール氏の「ドン・ジュアン」の演出助手が、氏について、または氏の仕事ぶりについて、あるいはそこから何を学んだかということについて何かを語るためには、今はあまり適当な時期ではない。初日は目前に迫っており、稽古はまさに白熱状態にある。以下の短文はその合間に書かれた、いわば現場でとったノートの断片であり、演出助手の怠惰の証明書である。
十二時きっかり、階段を駆けおりて来る。「やあ、こんにちは」しゃべりながら上着を脱ぐ。「さあ、始めよう!」いつもの葡萄酒色の裏地の黒い上着をたたんで、椅子の背にかけ「今日は第一幕から。さ、行こう!」今日は、黒地に細い赤い縞の入ったシャツ。「スガナレル! ギュスマン!」手を打ち鳴らしながら舞台へ。歩いてみせる。小柄な、やせぎすな、腕の長い、よく動く体。すわってみせる。首を前へつき出す。栗色の、半白のみじかい髪。大声でせりふを言い、陽気になり、両腕をひろげ、まばたき、皮肉な顔になり、飛上り、落胆し、駆け出し、威張って見せ、突然絶望して頭を抱え込み、演出家の椅子へ帰るかと思うと、たちまち引き返して忙しく台本のページを繰り、ローマ字で書いてある日本語のせりふを巧みに真似てみせながら、役者の欠点を指摘する。「分ったかい?」声を立てて嬉しそうに笑う。「さあ先へ行こう!」息をつく暇もない。ただ一回きりの十五分の休憩。その間もダメ出し。氏の黙っているのは、ほとんど通訳が氏の言葉を取りついでいる間だけである。
勤勉、活動的、多弁、精力的、情熱的。「額に汗して働く」演出家。古い童謡の主人公、森の鍛冶屋を思わせる演出家。
言葉の障碍。「そこから歩いて来る時、手を腰へ当てたままじゃおかしいな。楽にして、手を振ってごらん」通訳が取りつぐ。まだ終らぬ内に、じれったくなって、自分で腰に手を当てて歩き廻りながら「ほら、ね、おまえこうやって歩いているだろう? おかしいだろう? ええ? 見ろよ、へんだろう? 分ったね、さあやってごらん、もう一度」通訳は口をきく暇がない。役者は、氏がいつものようにお手本を示してくれたものと思い込む。氏の真似をして、腰へ手を当てて歩く。氏は絶望的に両手をひろげ、肩をすくめる。
つまりこれは身振りの障碍でもあるわけだ。これこれしかじかの場合に腰に手を当てたまま歩くはずがないということが、こちらには通じない。「そう振り向くと、タルチュフになるよ」「商人はそんなすわり方はしない」「驚いてもいないのにどうしてそんな恰好をするんだい?」等、等……
「ドン・ジュアンていうのは、つまり、自分に納得の行かない事柄はすべて、我慢のならない男なんだ」
「そのせりふをしゃべっている間、きみは何を見ていた? それじゃ、まるで幽霊だ」
「きみ、自分で問題を難かしくしてはいけないね。そう何もかも詰め込むことはないじゃないか」
「そこじゃない、ここへ立ちたまえ。一メートルちがっても、意味はまるで別のものになってしまう」
基本。あくまでも基本に忠実に。それが、徹底している。飽きず繰返す。前のベントール、クラーマン両氏をはるかに上廻る稽古量。千本ノック。ぶつかり稽古。
「今の場はとても良くなった。大進歩だ。ほとんど完全だ。しかし完全と、ほとんど完全とは、まるで別物だからね。たとえば……」
障碍。混乱。議論。試行錯誤。疲労。努力。忍耐。堂々めぐり。(フランスでやる通りにやらないで、どうしてモリエールの「ドン・ジュアン」が上演できるか?)身振りと日本語とフランス語の摩擦。誤解の発見。リラックス。冗談。回復。(モリエールを歪めずにわれわれの、日本人のものとすることが出来るか?)せりふ。動き。リズム。希望。努力、稽古、稽古……
五時半、稽古が終る。「小道具は?」役者のいなくなった舞台に、小道具や靴が運ばれる。デッサンと見くらべながら、一つ一つダメを出す。「これは何だい? 海老《えび》? これじゃお客には分らない。海老はこんな色じゃないよ」「この靴の先、もっと、とがらせてもらいたいな。鉛筆をけずるようには行くまいけれど、何とか、ね」七時終了。上着の袖に腕を通しながら「明日は十時から音楽の打ち合せだったね? よし。ああ、今日はよく働いた。(小声で私に)何かダメ出しはないかい、私に。(笑いながら)じゃ、明日」階段状になっている客席の通路を駆け上り、そのまま、中庭から上の道路へ、四十段の階段を一気に駆け上って、小柄なメル小父さん(私たちのつけた愛称)の姿は消える……
——一九六六年九月 雲——