「恭しき娼婦」
サルトルの劇は難かしい、実存主義哲学が分っていなければ、サルトルの劇を見たって分る筈がないし、面白い筈がない、という説があります。なるほど、サルトルの劇は、難かしい問題を含んでいます。しかしそのことと、実存主義哲学が分っていなければサルトルの劇を見たって分らないということとは、同じことではありません。
サルトルは、現に生きているわれわれの眼の前で、現に生きているわれわれの問題をとりあげ、現代における人間の一つの生き方を提出します。観客に対する烈しい問いかけです。いわば裏も表も見通しのところで力業をやっているわけで、哲学的教養というハンディキャップをつけて勝負を楽にしようなどというのんきな了見は、恐らく起している暇がないのです。サルトルにとっては、こういう力業を敢えて行うことが——劇を書くこと、直ちに哲学的実践に連なっているのに、それを、サルトルの劇は実存主義哲学の骨組の上に芝居の肉づけをしたものだから、骨組が分らなければ面白くないというのでは、話がまるで逆です。実存主義とは、観念的体系ではなく、一つの生き方です。そしてサルトルは、実存主義者だけのためにではなく、人間のために劇を書いているに違いありません。
僕達はこの劇の上演をそういうものに——つまり、予備知識ぬきで、十分に分りもし、面白くもある芝居にしたい。サルトルの提出する難かしい問題や生き方がその中にありありと浮び上ってくるようにしたい。僕達の力業の結果がどういうことになるか、稽古中の期待と不安とは、常にもまして切実であります。
——一九五二年七月 毎日マンスリー——