犬と雷雨
北軽井沢の岸田先生の山荘をお借りして、夏を過しました。おかげで、すこし陽にやけ、体重もふえて、元気になりましたが、仕事は当分無理のようです。今年いっぱい、離れているつもりです。
一日の生活は単調をきわめています。大部分はベッドか肱掛椅子で過します。ときどき本を読んだり、トランプをしたり、水彩画を描いたり、ノートをとったりする、それでべつに退屈もしません。
きょうはナナが遊びにきました。「女優ナナ」とは何も関係がない、すこしやぶにらみの、雑種の犬です。昔ここには、山羊のジャコモとか、家鴨のドド、レレ、ミミ、ファファなどという連中がいて、なかなか賑やかだったようですが、いまはこの村のクラブに引き取られているナナが、たまに遊びにくるくらいのものです。おもしろい奴で、家の勝手を知っていることにかけては「ピーター・パン」にでてくる同名の犬にも劣らないほどです。
「……きょうはベランダから入ろう。網戸をあけて下さい。ありがとう。おひるはトウモロコシか。バターは塗らないの? じゃ、しようがない。へんなところに薪をならべてあるなあ。しいたけが生えてら。ええと、二階には……だれもいないらしい。ね、そうでしょ?」
足元へ来て、ひとしきりじゃれたりして、そのうちに、何だか気の抜けたような顔になり、向うの山を眺めていたかと思うと、いつの間にかいなくなってしまいました。やっぱり人違いだった、というわけかも知れません。こちらとしても残念ですが、こればかりは、どうしようもありません。
きょうは朝から晴れて、みごとな秋日和です。こういう日には、散歩の時間もつい長くなりがちです。
池沿いの道が林に入り、そのゆるい傾斜を上りつめると、急に視界がひらけ、近い浅間山、遠い万座山や白根山が一望のうちに見渡せます。道の傍に、落雷に焼かれた白樺の巨大な根から、ひこばえが密生して、灌木の茂みのようになったのが、濃い葉群の影を落していました。
この夏も、すさまじい雷雨の襲来がありました。白紫色の電光が、豪雨にわき立つ山林をくまなく照らし出す一瞬の奇妙な静寂には、この中を響いてゆくことのできるのは「悲劇」の声だけだと思わせるような、威厳がありました。
山ではもう紅葉がはじまっています。避暑客も目立って少なくなりました。これからは、さびしくなる一方ですが、もうしばらく、こちらで暮すつもりです。
——一九五六年八月 毎日新聞——