劇場について
ジャン・ジロドゥーの「オンディーヌ」に出てくる一人物は、劇場と戯曲との関係について、まことに卓抜な意見をのべている。
彼によれば、劇場もまた、われわれ人間とおなじように、セックスをもっているのである。たとえば、男性的な戯曲を上演したときに、幸福な反応をおこす劇場は、女性の劇場である。
のみならず、あらゆる劇場は、それぞれただ一つの戯曲のために建てられており、その戯曲の上演されるのを待っているのである。劇場支配人の職業の秘訣は、その相手をみつけてやることである……
いかにもジロドゥーらしい機智にあふれた意見だが、幸福な結婚が稀であるように、戯曲と劇場との幸福な結合もまた、実際にはなかなか行われ難いのである。
理想的な劇場が欲しい、とよく言うが、どんな戯曲の上演にもすばらしい効果を発揮する理想的な劇場というようなものがあるだろうか。そうは思われない。劇場にはかならず個性があらわれる。ジロドゥー流に言えば、美しく粧った貴婦人のような劇場もあれば、謹厳実直な老教授のような劇場もある。舞台機構や客席の設備が同じように完璧だったとしても、福田恆存氏や三島由紀夫氏の戯曲の上演にふさわしい劇場は、「ジュリアス・シーザー」や「シラノ・ド・ベルジュラック」の上演にふさわしい劇場とはおのずから異なる筈である。
元来劇場というものは、どんな形式でも構わないものだ。舞台が、俳優の行動するのに具合よく、客席が、観客の判断し、夢みるのに便利なように出来ていさえすれば、それでいいのである。
ところが、そういう劇場がなかなか見つからないから困るのである。客席の椅子がひどく窮屈だったり、せりふをしゃべるとその声が舞台へ反響してきたり、電車の音がきこえてきたり、二階から見ると谷底をのぞくようだったりする。理想的な劇場がないのではない、普通の劇場がないのである。
まあ、これでやってゆくほかはないが、せめて、一定のレパートリーとアンサンブルとをもった一つの劇団が、一つの劇場で、芝居を打ちつづけることが出来たら、新劇も「理想的な」演劇的交感を生むことが出来るだろう。
ひところ、アメリカの円形劇場というのが話題になったことがある。昔の円形劇場の形式を、現代風にうまく生かしたところが取柄で、日本でも、円形劇場運動とか、円形劇場用の脚本とかいう言葉が聞かれたようである。なるほど、それも一つの行き方に違いない。能の伝統のあるのにも拘らず、舞台を囲んで観劇するという習慣が、一般にはほとんどないから、円形劇場は愉快な新鮮な演劇空間となる可能性が、十分にあるだろう。しかし、円形劇場に限る、ということはないはずである。旧式の額縁舞台から、最も新鮮な劇的感動の生れる可能性も、また十分に保証されているのである。
——一九五四年九月 三田文学——