父の映像
父は私が八つの時に亡くなった。その少し前から、私は、父の書いた童話などを、母や祖父の助けをかりて、おぼつかなげに読みはじめていた。それはしかし、まだ物語への興味からではなく、いわば、私の知らない世界にいる父を見いだそうとする、子供らしい好奇心からであったのだろう。父の所へ来る「赤い鳥」や「金の星」は、ハトロン紙で固く筒のように巻いてあり、その包紙を剥《む》く時には、いつも、中の雑誌まで一緒に破いてしまわないように、気をつけなければならなかった。巻き癖がついて、めくり悪《にく》くなっているページを、あちらこちら繰っているうちに、突然、芥川龍之介作という活字をみつける、その時の心のときめきにくらべれば、実際に物語そのものから受ける感銘は、水のように淡かった。私にはまだ、物語を享《う》けいれる力がなかったのである。
それとたいへんよく似た気持を味わうのは、むしろ、父の書斎へしのび込む時であった。父の書斎は、二階の八畳の間になっていたが、私はほとんど、そこへ行くことがなかった。暗い階段口から見あげると、障子を入れた丸窓が半分だけみえる。私に親しいのは、その半分の丸窓だけであった。ときどき、父の留守を見すまして、私は、誰にも気づかれないように、足音をたてないようにして階段をのぼり、こっそり書斎へしのび込んだ。書斎は、家中の他のどの部屋とも、ひどく違っていた。その部屋だけが、一種特別の秩序をもっていて、そこへはいると、自分までも、何だかふだんとは違ってくるような気がした。壁際に箪笥などが置いてあることはあっても、ほかの部屋はいつもあんなひろびろと片づいているのに、この部屋は、さまざまな物の集積が、部屋の中心を形づくっているのであった。青い絨毯《じゆうたん》を敷いた、明るい部屋の中央に、小さな紫檀の机と、長火鉢とが、鉤の手に置いてあり、後の二辺を、書き損いの原稿用紙や、炭取りや、つみ重ねた本や、来翰《らいかん》を入れた木の盆や籐の紙屑籠などが、雑然と描き出している。机の向うの、座蒲団のおいてある所が、自然にそこだけ窪んだようなかたちで残されていて、それは如何にも、父の出かけたあとという感じがした。壁際の本棚には、本がぎっしり並び、高い床の間の前のあたりには、壺や鉢が置いてある——。その部屋の、ごたごたした豊かな様子を、私はいつも目を瞠《みは》る思いで眺めた。煙草の匂いと本の匂いと、それからまだ何かの匂いの混り合った気持のいい匂いが、いつもしていた。そして、障子越しの陽をいっぱいに含んだ暖かくなっている絨毯の上を、その感触をたのしむために、わざと足を摺って歩いてみたりした。
父の死以来、自然私は、一層読書に親しむようになった。大きくなるにつれて、だんだん、書いてあることが分るようになってきた。例えば「白」という童話は、はじめは、白犬が黒犬になり、それがまた元の白犬にかえるというだけの、奇妙な話にすぎなかったのが、何時の間にか、臆病だったばかりに友達を見殺しにした一匹の犬が、つぎつぎに苦しい出来事に遇ってゆくという、悲しい勇ましい物語にかわりはじめた。(物語のほんとうの意味が分ったのは、勿論、ずっと後のことである)そのうちに、童話以外の作品も読むようになった。「子供の病気」や「蜃気楼」のような小説を、かなり早い頃に読んだ。その中に、母や弟や祖母などの身近な人達が描かれ、馴染の深い風景が写されていたからであろうか。私はやはり、私の知っている世界にいる父の声を、聴こうとしていたのかもしれない。
聖学院の付属幼稚園に通っていた時のことである。その年頃の子供にとっては、かなり遠い道のりで、私はいつも、祖父や女中に付き添われていった。付添いの人達は、お祈りや歌や遊戯や、一日の課業が終るまで待っている人もあるし、一旦帰ってからまた迎えにくる人もあるし、まちまちであったが、待っている人は大抵、庭で編物をしたり本を読んだりしていた。教場から玄関の廊下へ出る戸口の、硝子戸越しに、ずっと授業を参観している人もあった。授業が終りに近づく頃になると、だんだん廊下に立つ人が増えてくる。そういう時には、どうしても戸口の方へ傍見《わきみ》をしたくなる。私達はそれでよく先生に叱られた。
クリスマスの日に、私達は聖誕劇を演じることになっていた。私の役は羊飼だった。「あれ、あの光をごらんなさい。あの音楽をおききなさい。みんなひざまずいて、神様のおつげをききましょう」という、たった一つのせりふを、そらで大きな声で言えるように、私は一生懸命練習した。
ある日私達は、いつものように劇の練習をしていた。五人の羊飼とその羊達の簡単なマイム、天使達の踊り、三人の博士の登場、合唱団の讃美歌と、場面は次第に進み、最後に、一段と高く奏でられるオルガンにつれて、私達は大きな輪をつくりながら、歌いながら、行進をはじめる。見なれた教室も、そうやって一定の速度でぐるぐる廻ってみると、いつもその度毎に新しい感じがした。
その日も私は、このメリー・ゴー・ラウンドを秘かに愉しんでいた。——オルガンを弾く先生、貼出しの図画、廊下の人達、ストーヴ、滑り台、枯れた藤棚、蓄音器、白いカーテン、オルガン——。歌につれて、つぎつぎに視野に入り、過ぎてはまた現われてくる風景や人や物達のうちに、ふと私は、父を見た。私はびっくりした。けれども歌がつづいていた。戸口から庭の方へ、歩みつづけながら、私は振返ってみたが、もう光の加減で硝子戸の向うが見えない。やがてオルガンの所までくると、またよく見えるようになる。やはりそれは父だった。
父は、寒々と居並んだ三、四人の付添いの人達に混って、硝子戸ごしに、少し前こごみに私の方をみていた。ほかの女の人達の間で、父は、どうして今までそこにいるのに気がつかなかったかと思うほど、背が高く、飛抜けてみえた。黒い二重まわしで、帽子は冠っていなかった。そして私と目が合うと、ちょっと頷いて微笑した。私はまた庭の方へ遠ざかっていったが、今度は安心して、振返らなかった。かえって、元気よく手を振り、大きな声で讃美歌を歌って行った。オルガンの所へ来ると、父は相変らず微笑しながら、また軽く頷くようにしてみせた。……
あの時の父の姿が、妙にはっきりと印象に残っているのは、場所や情況が、例外的だったからであろうか。いつも見馴れた、大抵は女の人ばかりがいる硝子戸の向うの廊下に、父を見ようとは、私は夢にも思ってはいなかった。父が幼稚園へ来るということ自体が、私には到底あり得ないことに思われた。二階の書斎にいる父が、私にとって、知らぬ世界の父であるように、私の幼稚園は、父にとっての知らぬ世界である筈だったから。
しかし考えてみると、父の死後も、私はたびたび、それとよく似た経験をしているようである。中学校の教科書で習った「戯作三昧」には、(尤もそれは抜萃だった)ほんの通り一遍の興味しか覚えなかった。その後、始めから終りまで全部読んだ時にも、大して心を動かされなかった。が、何年か後、三度目に読んだ時、私はやっと、しかも突然に、父の姿をそこに認めた。それは何も「戯作三昧」に限ったことではないし、また学生時代に限ったことでもない。今でも私は、思いがけない父の心を読むことがある。殊にそれは晩年の作品に多い。
父はいたのである。見えないのは此方の故だけだ。
父と一緒に町へ散歩に出たことがあった。日暮れの町の通りを、綺麗な服を着た西洋人達が、ゆっくり歩いていた。父は私に青や黄の西洋蝋燭を買ってくれた。
しかし、家の者は外に誰もいないその軽井沢の生活でも、私は大体に於て父と別々の時間を過していた。そして私は、格別それを不満とは思わずにいた。毎朝、山襞《やまひだ》をつつんで流れる霧をみるのが、私には珍しかった……
「お父さんは今夜一寸御用があって出かけてくるからね」
「どこへゆくの?」
「よその小父さん達と一緒に御飯をたべるんだよ。おとなしくして待ってなきゃだめだよ」
ある夕方、父とそんな会話をした。——
私は階下の部屋の、厚地のカーテンを垂れた窓の傍に佇んでいた。少し離れた所に玉突台があって、三、四人の客が玉を突いていた。時々、玉のぶつかる快い音が聞えてきた。私はそろそろ心細くなりはじめていた。私は古めかしい大きなカーテンを、身体に纏うようにして、暗い窓の外を眺めていた。窓の外には蔦《つた》の葉が戦《そよ》いでいた。すると、うしろの玉突台の方で、急に笑い声がした。私はふと、どこかの家のどこかの部屋で、大勢の人達が口を動かしたり笑ったりしている有様を想像した。それは、外国の活動写真の宴会の場面に似ているようであった。父もその中にいて、笑っていた。私は急に悲しくなり、カーテンにくるまったまま、声をあげて泣きはじめた。父は、私には見当もつかない程遠い処にいるのであった。ちっとも知らない人達と一緒にいるのであった。
堀辰雄さんが来て「どうしたの? どうしたの?」と心配そうに訊いて下さったのを思い出す。
それからどの位経っただろうか。私は父が部屋へ入ってくるのをみた。父は私に近づいた。
「わるかったね。ごめんよ。さあ、もうお父さんは帰って来た。さあ、もう泣くのはお止め」
父は私の背中を軽く叩きながら、何度もそう繰返した。父は微笑していた。
裏門が烈しく開いたと思うと、近くに住んでいる叔父が、中庭へ飛込んできた。飛石に躓《つまず》いてよろけた拍子に松の木にぶつかり、雫《しずく》が雨のようにふる。下駄を蹴るように脱ぎ、その気配にいそいで茶の間から立ってきた祖父をみると、叔父は、障子に齧りついて堰《せき》の切れたように泣きだした。父の死の朝の最初の記憶である。
死の意味は私にはまだ分らなかった。私は大して悲しくなかった。
鵠沼から来た母方の祖母は、廊下でぱったり出遇った途端に、私を抱きすくめ、私の肩へ顔を押当てて、「比呂ちゃんのお父さんは、……死んでしまったんだよ」と言いながら、声を忍ぶようにして泣き出した。固いものが胸にこみあげ、私はわけもなく涙をうかべた。「苦しい。離して」と私は言ったような気がする。縋《すが》ろうとする祖母の手を振切り、私は納戸のかげの暗がりにかくれて、涙を堪えようとした。ほんとうに父の死が悲しいのではなかった。大人の悲しみが、私にも移ったまでのことである。「お父さんはまだおやすみだから、おとなしくしているんですよ」と誰かに言われると、私はまたすっかりその気になって、「こんどはいつ鵠沼へ連れてってくれるのかなあ」などと人に話しかけたりした。
父は私の目の前に寝ていた。(それは二階の書斎ではなく、その後に建増しされた階下の、やはり八畳の書斎だった。新しい書斎は、二階の書斎よりもずっと暗かった)静かに目を閉じ、きちんと真直ぐに上を向いているのに、口を開いているのがおかしかった。私はそれを、まるで子供のようだと思ったりした。
それにしても、私はその時ほど間近に父の顔を見たことはないような気がした。いくらでも、私は見られるのであった。そうしてどんなに私がみつめても、そのために父には何も起らないのであった。かけてある着物の、胸のあたりに、突上げたように高くなっている所があって、私はそれを不審に思った。傍にいた人が、それは掌を組んでいるためだと教えてくれた。誰か、和服を着た大きな人が、すぐ床の脇に坐り、さっきから下を向いて泣いていた。その人は何度も指で涙を拭いた。そうして、胸のあたりの突上げたような不自然な形はやはり依然として変らないでいた。そのために私は、かえって、父の何かが変ったことを、父に何かが起ったことを、感じないわけにはゆかなかった。
やがて十九年になる。七月二十四日、その日も近い。生きていれば今年五十五歳の、その父の姿を想像することは難かしいが、映像を求めることが何になろう。田端の家はなくなってしまったし、「庭の隅の金網の中には白いレグホン種の〓が何羽も静かに歩き」、「遠い垣の外の松林を眺め」ることの出来た鵠沼の家も、まわりに家がたてこみ、庭にはさまざまな野菜が育てられている。机の上には、渝《かわ》らない全集がある。
——一九四六年八月 文藝春秋——