父と老人達
小さい時に、祖母からこんな話をきいた。
——「家の御先祖」は三河の百姓だった。ある朝、川で「大根の葉っぱ」を洗っていると、むこうの森からりっぱな鎧《よろい》装束のお侍が二人あらわれた。その時三河の国は戦《いくさ》をしていたのである。二人は戦に負け、手傷を負って逃げてきたのであった。若い方の武士(それは本多平八郎忠勝であった)が、この方は「権現様」だから、向う岸まで「おぶってお渡し申せ」と命じたので「御先祖」はその通りにした。そのおかげで権現様は命拾いをしたのである。——「権現様」はある日その百姓を思い出して、本多平八郎忠勝に城へ呼ぶように命じた。「御先祖」は「侍分」に取立てられた。そして「権現様」を背負って渡った川の名を、その苗字として授けられた。そういうわけで家の苗字は芥川というのである……
話し終ると祖母はおかしそうに笑いだした。傍には、晩酌に顔を赤らめた祖父がいて、やはり笑っていた。恐らく祖父自身も幼い頃に、そんな風に笑いながら話されたことがあったであろう「御先祖」の話である。
長い年月のあいだに書き溜められた由緒書や親類書が、一まとめになって、籐の手箱に入っている。僕なんかには唯でさえ苦手の達筆が、ところどころ虫に喰われて尚更読みにくくなっているのを、あちらこちらと拡げてみると、その「御先祖」は芥川春洲という人らしい。一 先祖芥川春洲 権現様御代慶長九辰年月日相知不申候御広間方江新召出御切米弐拾俵弐人扶持。つづいて、芥川長春、芥川春清、芥川長古などという名前が読まれる。容易に想像されるように、こういう古風な美しい名前は、本名ではなく、剃髪《ていはつ》をしてからの替名である。芥川家は代々「御奥坊主」であった。
大正三年の秋、芥川家は新宿から、その頃はまだ物寂しい郊外だった田端へ移った。
「引越して一月ばかりは何やかやで大分忙しかつた 此頃やつと壁もかわいたし植木屋も手を引いたので少し自分のうちらしいおちついた気になつたがまだしみじみした気になれないでこまる 学校へは少し近くなつた その上前より余程閑静だ 唯高い所なので風あてが少しひどい 其代り夕かたは二階へ上ると靄《もや》の中に駒込台の燈火が一つづつともるのが見える 地所が三角なので家をたてた周囲に少し明き地が出来たこれから其処に野菜をつくらうといふ計画があるがうまく行くかどうかわからない 庭には椎の木が多い 楓《かへで》や銀杏《いてふ》も少しはある」
親友だった恒藤恭氏に、当時大学生だった父はそんな手紙を書いている。
父の作家生活は殆ど、この田端の家で過された。僕達兄弟が生れたのも、父や祖父母達が亡くなったのも、みんなこの田端の家である。
田端の家の庭は、僕の物心ついた時分には、樹木ももう随分多くなり、しっかりと落着いていた。椎や楓や銀杏のほかに、八つ手が沢山あった。越して来たばかりの殺風景な庭をととのえるため、祖母や大伯母が、王子の方の親戚へ行く度に若木を少しずつ持って帰ったのが、成長したのだという。
柘榴《ざくろ》、椿、丁字、臘梅、萼《がく》、桜、百日紅《さるすべり》、木瓜《ぼけ》などが季節ごとに花をつけた。僕は母に糸をつけた針で桜の花びらを刺して、花紐をつくることを教わった。
裏門の近くに、四隅に竹を立て、棕梠縄をめぐらした「花壇」があって、そこにも桔梗《ききよう》や水引草やあかのまんまや草酸漿《くさほおずき》や月見草が、花や実をつけていた。
そのほかにも、芭蕉や松があった。ずっと後になって父の好みで、庭に箭竹《やだけ》と棕梠が沢山植え込まれた。
庭の掃除をするのは、老人達の日課だった。
朝起きると、食事の前に、祖父は柄の長い箒で、大伯母や祖母は草箒で、植込みの中の落葉を掃く。生い茂った竹や八つ手を透している光の縞の奥から、静かな規則正しい箒の音が聞えてくる。
僕はよく下枝や茂みを潜りぬけて行っては、その傍に跼《かが》んで、蟻を眺めたり、落葉の中から青木の実を拾ったりして遊んだ。そういう時に、いつも、わざわざ白い八つ手の花を落してくれたり、ぬれた幹を滑ってゆく蝸牛《かたつむり》を取ってくれたりするのは、祖父であった。
祖父はたいへん僕を可愛がった。僕もいちばん祖父になついていた。「おじいさんっ子」だと言われた。祖母も僕を可愛がらなかったわけではないが、その愛し方は騒々しく、僕は祖父に対する程自由な気持でいることが出来なかった。
祖父は立派な体格をしていた。大柄な顔立が、厳《いか》つく見えることもあったが、どちらかといえば優しく、笑うと子供のようにあどけなかった。盆栽が好きで、座敷の縁先に台をつくり、鉢を並べて、朝夕に如露で水を注いでいた。庭の八つ手の葉が煤煙を浴びて黒くなっているのを、一枚一枚雑巾で拭いていたことがある。
碁や一中節や俳句なども好きだったらしい。何によらず器用な性質で、大工道具なども一と通り揃えてあり、建具の繕いや一寸した指物などは大抵自分で片づけた。近くに老人の指物師の一家が移ってきて、その貧しい風采の上らない老人が思いの外に丹念なみごとな仕事をするので、祖父は面白くないらしかった。仕事があってその老人を頼もうとすると、「またあの爺を呼ぶのか」と苦い顔をしたりした。昔は篆刻《てんこく》などにも手を染めたらしく、「芥川文庫」という石印がのこっている。素人にしてはなかなかうまいように思われる。字にも厭味がない。
小学校への送り迎えをしてくれるのも祖父であった。ある朝、教室へ入ると、いきなり懐ろから金槌と紙に包んだ釘を取り出して僕の腰掛の脚を直しはじめた。すこしぐらついていたのを、前の日に発見して、用意してきたらしい。カンカンとあたりはばからず大変な音を立てるので、恥ずかしかった。生徒達がおおぜいたかってきた。誰かが「小父さん、何してるの?」と訊くと、祖父は少し煩さそうに「なに、比呂公の椅子が壊れているから直しているのさ」と答えた。
古い、百年近くなるという長火鉢の前が食事の時の祖父の席であった。毎晩二合位ずつ晩酌をやり、機嫌のよい時には「比呂公、手褄《てづま》(手品のこと)を使ってやろうか」などと言いながら、茶碗の蓋を呑込んで眼から出して見せたりした。顔をしかめたり胸を押えたり、いろいろ身振りをするのが面白かった。ふと気がつくと、隣に父がいてやはり面白そうににやにや笑いながら、祖父を眺めていることもあった……
祖父は、父の一周忌の三日後に亡くなった。毎朝のように庭の掃除を済ませ、茶の間の縁側へ腰を下ろした時、強い脳溢血を起して倒れた。八十三歳の高齢であった。
祖母は祖父とは反対に、小柄な老人だった。(僕達は祖母のことを「小さいおばあさん」大伯母のことを「大きいおばあさん」或いは「ばあちゃん」と呼んでいた)
祖母は幕末の大通人細木香以の姪だった。そのために、父が細木香以の血を享《う》けているように言われることがあるが、それは誤りである。父は、祖父(道章)の実妹芥川ふくが新原敏三に嫁いで挙げた第三子(長男)である。母方に子がなかったために、生れるとすぐ芥川家に引取られた。祖父はそれ故、父の養父であり、また実の伯父に当るのである。祖母(養母)とは血のつながりはない。
祖母は若い時には、同じ下町育ちとは言え、祖父や大伯母——芥川家に育った人達よりも、明るい派手な生活をしていたようである。何かおかしいことがあって笑う時にも祖父や大伯母にはおのずからな形があって、どんなに心の底から笑ってもその限界は決して踏越えない感じであったが、祖母は身体をまげ、ほとんど涙を流しながら甲高い声をたてて笑いこけたりした。出入りの商人や女中達にいちばん親しまれているのはこの祖母であった。万事に砕けた所があり、祖父や大伯母の武家風なのに比べると、商人風であった。煙草が好きで、いつも長火鉢の前に坐り、長い煙管《きせる》できざみを吸っていた。
祖父の妹に当る大伯母は、三人の老人の中で、一ばん子供達には親しみにくい人だった。一ばん恐かった。顔が長くて、眇《すがめ》だった。子供の時に凧揚げを見に行き、凧の綱に足を取られて倒れたはずみに、竹か何かにさしたのだそうだ。然しその顔には気品があった。
一生涯、独身であった。若い時に、是非嫁にと言ってきた人があったそうである。英語の先生で、美しい口髭を生やし、太い縮緬《ちりめん》の兵児帯をしめた立派な人だったという。時々訪ねて来ては、話をする暇に、英語を教えてくれたそうである。僕達は時々面白半分に尋ねたものだ。
「犬は?」「ドッグ」「猫は?」「キャットだろう。そのくらいはまだ覚えていらあね」そう言って大伯母は笑う。
ところが、その英語の先生はよそからお嫁さんをもらってしまった。——勿論、それが大伯母の独身の原因の全部とは思えないけれど。
気に入らないことがあると誰でも叱る。祖母まで叱られるのであった。お盆のお使いものだとか、蒲団の綿の打ち返しだとか、他家とのつきあいや家の中の細かな眼の届き難いことの取締りをするのが大伯母であった。
「父母の外に伯母が一人ゐて、それが特に私の面倒を見てくれました。今でも見てくれてゐます。家中で顔が一番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通点の一番多いのもこの伯母です。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出来たかどうかわかりません」と父は書いている。
大伯母の父への愛は深く、一生、それは渝《かわ》ることがなかったといってよい。人工栄養で育った虚弱な父は、幼い頃から病気をし勝ちだった。そういうときにいつも一ばん心を痛めるのは大伯母であった。ある夕方、父はひきつけの発作を起した。大伯母はちょうど髪をといて洗っている最中だったがその報せをきくと、すぐに父を抱え、濡れた髪をふり乱したまま、裸足で夕暮れの町を走り、医者の家へ駆込んだ。それを見た町の人達は、狂人だと思ったという。
大伯母と祖母とは、祖父が死んでから尚七年近く生きていた。そして同じ年、大伯母は八十二歳で、祖母は八十一歳で、死んだ。
彼は結婚した翌日に「来〓々無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と言ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詫びを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまゝ。……(或阿呆の一生・14)
彼はいつ死んでも悔ひないやうに烈しい生活をするつもりだつた。が、不相変養父母や伯母に遠慮勝な生活を続けてゐた。……(同・35)
或声 お前の家庭生活は不幸だつた。(闇中問答)
例えばこの様な章句から、父の悲しみや苦しみを感じるのはよい。しかしそれは誰が悪いのでもなかった。父自身書いた通り愛し合うことが苦しめあうことだったのである。とはいえ、それをおしひろめて、暗鬱な家庭を想像することも、また無用な事である。田端の家の日々は寧ろ静かにととのっていた。ただ父の心はもうどうしようもない程暗くなっていたのである。
父の書斎は二階の八畳だった。(後になって階下に建増しをして、そちらへ移った)廊下に籐の椅子と卓とが置いてあり、そこから、庭が見下ろせた。煙草の吸殻を庭に捨てる客があると、父はたいそう不機嫌になった。そういう鈍い神経は父にとっていちばん堪え難いものであっただろうと思う。
食事の時間になると、階段の下から二階で仕事をしている父に声をかける。「龍ちゃん、ごはんだよ」と老人達はいう。母は「お父さん、ごはんです」という。それに応じて二階から「はい」という返事が聞える。
幼い僕は、たぶん祖母にでも教えられたのであろう、「とうちゃん、まんま」と呼んでいたそうである。それがしまいには、父の返事を真似て「とうちゃん、まんま、はあ」と言うようになったそうである。ずいぶん後まで、祖母はこの事を一つ話にしていた。
「お槍でせ、よやまかせ」という妙な文句を教わったのも祖母からである。はたきの柄を掌に挾んで廻すとはたきの先が波を打ってよじれる、それが面白くて遊んでいると祖母がこの文句を教えてくれた。「供奴」か何かの文句なのであろう。はたきから毛槍を聯想したのは如何にも芝居好きの祖母らしい。——ある日、父と母に連れられて、牛込にある母の実家へ行くことになった。松住町かどこかで市電を乗換えた。僕は父と母との間にはさまり、座席に膝をついて窓から外を見ていた。人が通る、自転車が通る、いろいろな店が次から次へと現われる。するとふと一枚の余り大きくない看板が目に入った。字は読めないが、そのまん中に毛槍を持った奴さんが一人踊っている。僕は思わず「お槍でせ、よやまかせ」と叫んでしまった……母に背中を叩かれたような気がする。振返ると車中の客がみんなこっちを見て笑っている。余程大きな声だったらしい。
父も下を向いておかしそうに笑っていた。それから僕の方を向いて、「電車の中であんまり大きな声を出すものじゃないよ」と言った。
家へ帰ってから、この出来事はいい話の種になった。祖父も祖母も、みんな笑った。「いやあ、どうも実に閉口しましたよ。みんなが此方を見てしまってね」と父は、さも困ったように笑いながら、祖父に話しかけていた……
父の仕事が終って、階下の茶の間や縁側で家の者達と寛《くつろ》いでいる時に、せがんで話をして貰うことがあった。父のお得意は「西遊記」だった。僕の方でもそれが面白くて、いつも続きをせがんだ。孫悟空は僕の幼年時代の英雄だった。
怖い話をと頼むと、ラフカディオ・ハーンの「のっぺらぼう」の話をしてくれる。
もっと怖い話を、とねだったことがある。「もっと怖い話?」父が暫く考えていると、傍の祖父が「××(これは覚えていない)の話はどうだい」と言った。すると父は頭を振って「ああ、あれは恐い。だめですよ。話している方が恐くなる」と言い、祖父と声を揃えて笑った。その話は到頭きけなかった。
母に買って貰ったクレヨンを持って行って孫悟空の顔を書いてくれと頼んだ。父は早速猿の顔を描いてくれた。猪八戒、沙悟浄、三蔵法師と次々に注文するのを、「よし、こんどは樺色」「こんどは緑色」と一々色をかえながら描いてくれる。「じゃこんどは牛魔王」「牛魔王か?」父は紫のクレヨンを手にしてしばらくためらっていたが、「だめだ、牛は難かしくて描けないよ」と言った。「お祖父さんに描いて貰えよ、お祖父さんがいい」
「何、牛魔王かい?」と祖父はクレヨンを受取ると、それでもどうやら牛の頭らしいものを描き上げた。
「どら」とのぞき込んで父は首を傾ける。「なるほどね。——しかしどうも変だ」「おかしいかえ」「ええ、なんだかねえ」「どれ」と祖父ものぞき込む。「おかしかないやね。これ位描ければいい方だ」「そうですかね」——途端に、父は噴き出す。「ああ、そうだ! 耳がないじゃありませんか、この牛は! どうも何かが足りないと思った!」
隣の茶の間で、祖母や大伯母や母が笑い出す。
「もうろくしましたね、お祖父さん」と大伯母が冷やかす。
「なに、一寸忘れたんだあね。角に気を取られたからね」そんな言訳をしながら、笑いの止らなくなった父と僕といっしょに祖父も照れ臭そうに笑っていた……
——婦人画報——