父の出生の謎
昭和三十年十月六日の東京新聞は、その社会面のトップに、「芥川龍之介出生の謎判る、小穴隆一氏が近く公表」「母親は横尾その、実家新原牧場の女中」という見出しで、次のような記事を掲げた。
芥川龍之介はだれの子供だったのか? 出生の秘密は芥川文学の研究にも大きな関係をもつものとして芥川没後三十年来追及されつづけてきたが、その秘密を知るただ一人の旧友が、近く永い沈黙を破って謎を明らかにするという。この新事実によって芥川研究は根本的に再検討されなければならなくなり、芥川研究家の間に波紋をまき起すことになろう。
話は昭和七年、芥川の旧友小穴隆一氏が「中央公論」に発表した「二つの絵」と題する文章にはじまる。
「彼の棺にクギを打つときに“これを忘れました”惶急《こうきゆう》——に彼の夫人が自分に渡した紙包は○○龍之助。断じて龍之介とは書いてなかった臍《へそ》の緒の包みである。のみならず、新原、芥川そのいずれでもない苗字を読んだ」
小穴氏の書いたこの一節は当時センセーションをまきおこし、主治医の下島勲氏は文藝春秋誌上で激しく小穴氏に迫り、○○は松村ではないかとの質問をした。
芥川龍之介は従来明治二十五年三月一日新原敏三、ふくの長男として生れ、父母大厄の年月日に生れたので当時の慣習によって捨子の形式をとり新原家の使用人松村浅二郎が拾い親となり、間もなく母方の伯父芥川道章の養子となったとされている。
しかし小穴氏は松村ではないといったままかたく沈黙をまもった。
ここでいよいよ「謎」なるものが明らかにされる。
「芥川死後三十年」小穴氏は、「当時は周囲を傷つけてはとの配慮から伏せていた事柄も“時効”となり、真相を伝えることが故人に対する親しみを読者に与え、またゆがめられた研究を正す一助にもなればとの考えから」近く「伏せられた苗字が『横尾』だったことを明らかにすることになった」というのである。ふたたび記事の引用をつづけると、
当時実父新原敏三が新宿区内藤町に営んでいた牧場に「横尾その」という女中がいた。芥川はその女中を母として生れた私生児だったわけで、小穴氏はこの出生の秘密を知った瞬間を次のように語っている。
「いよいよ出棺の間ぎわ、棺をあけて最後の別れをすることになったが、暑い盛りのこと、遺体がいたんではいないかと隣にいた谷口喜作民(俳人)がフタをあけたとき、茶の間の方から文子夫人が小走りにきて“忘れ物”といって一字が五センチぐらいの大きなかい書で横尾龍之助と書かれた白い紙包を棺のなかにすべりこませた。いろいろ自己を語っていた彼も、この事だけは一度も生前話したことがなかったので、全く驚いた」
「全く驚いた」のは小穴さんばかりではない。僕もまた、この記事を読んで「全く驚いた」というほかはない。(ことわっておくが、僕はこの「芥川龍之介の出生の謎判る」という記事を、ほとんど完全に引用したので、任意に抄出したのではない。この後には、この「新事実」なるものにたいする福田恆存氏と吉田精一氏との意見、および「読者はこのことによって、そのような宿命を負いながらそのような作品を書いた芥川に、より深い愛情を覚えるのではないかと思う」という小穴さんの談話が、記されているだけである)小穴さんはどうしてこんな辻褄の合わぬ話をしたのだろうか。東京新聞はどうしてこんな不備な記事を、しかも社会面のトップにのせたのだろうか。
「秘密を知るただ一人の旧友」たる小穴さんが「近く永い沈黙を破って謎を明らかにする」という。「真相を伝え」るために近く「伏せられた苗字が『横尾』だったことを明らかにすることになった」という。そして「秘密を知った瞬間」を小穴さんは「文子夫人が……五センチぐらいの大きなかい書で横尾龍之助と書かれた白い(臍の緒の)紙包を棺のなかにすべりこませた」と語っている。
そうすると、近く「伏せられた苗字が『横尾』だったことを明らかにすることになった」も何もない。小穴さんはこの新聞記事ですべてを語ってしまったことになる。いきおい、芥川龍之介がその実家である新原家にいた女中「横尾その」を母として生れた私生児であることと、臍の緒の包みに「横尾」という苗字が書かれていたこと、その二つの事柄の間を結ぶ糸こそ、小穴氏の「近く公表」するという「真相」であるにちがいない——この記事はそうとしか受けとれぬように書かれている。この記事の第一の特徴は、読むものに、そういう暗示的効果を与えるように書かれているところにある。僕は一寸「次週公開」という映画の予告篇や、「近日発売」という書店の広告を聯想したほどである。
わかりきったことだが、父が仮に私生児だったとしても、べつにどうということもない、まして、父の文学をおとしめることには毫《ごう》もならないと、僕は思っている。しかしこの記事に関する限り、どう考えてみても、臍の緒の「苗字」と、「女中横尾そのを母として生れた私生児」という二つの事柄のあいだを結ぶ糸など、ありようがないのだ。
しかし小穴さんにはその二つの事柄を結ぶ糸だけが見えたらしい。小穴さんは臍の緒の包みに「横尾龍之助」と書かれているのを認めた。小穴さんは新原家に「横尾その」という女中のいたことを知った。それで小穴さんは「横尾その」女を訪れて、訊いてみるとよかったのである。——いや、何を訊くにも及ばなかったであろう。会うだけで、十分だったのだ。なぜなら「横尾その」女は、芥川龍之介より一つ年下のひとだったのだから。
しかも「おそのさん」は新原家の女中だったのではない。本所の芥川家にいた女中だった。明治四十三年五月、内藤新宿二丁目七番地に住んでいた龍之介の実姉ヒサは、芝の新原家へ移った。その後へ、留守番として、本所の芥川家から芥川フキ(龍之介の伯母)と一緒に来たのが「おそのさん」である。「おそのさん」は十八歳。芥川龍之介は十九歳、一高へ入った年である。龍之介の実姉、当時二十三歳であり、現在六十八歳である葛巻ヒサは、今でもその「小柄なおそのさん」をはっきりおぼえている。そうしてまたその「おそのさん」は、その後女中をやめ、横尾家へ嫁して、はじめて「横尾その」となったのである。「おそのさん」を知っているのは、この伯母葛巻ヒサひとりではないことも、つけ加えておこう。
そうすると、「母親は横尾その、実家新原家の女中」という大見出しは、どういうことになるのだろうか。自分より年下のひとから生れることは誰にも出来ないことであり、「母親は横尾その」だとすれば「芥川龍之介の出生」はまったく「謎」というよりほかはないことがよく「判る」のである。つまりこの記事の第二の特徴は、実証性が全然欠けているところにあるということになる。
「芥川死後三十年」かも知れぬが「横尾その」女はもし健在ならば六十三歳のはずである。結婚されたのだから、家族の方々もおられることだろうと思う。「当時は周囲を傷つけてはとの配慮から伏せていた事柄も“時効”となり」というが、どうして「時効」なのか。
小穴さんはおそらく、「横尾その」女については、何も御存知なかったのである。小穴さんは臍の緒の紙包を読み、新原家か芥川家かにかつて「横尾その」という女中(実はそれも女中をやめて嫁いでからの姓なのだが)がいたということを、小耳にはさんだというだけのことなのであろう。その二つのものが小穴さんの頭の中で、したがって記者の頭で、如何にも意味あり気に結びつけられたのであろう。実体は何もないのである。
そうすると結局、先に引用した記事の中で問題になるのは、小穴さんの談話の部分だけということになる。「横尾その」女が生母でないとしても、「横尾某女」が生母だったことは考えられる、ということになるだろう。ただし、小穴さんの語っていることに誤りがなければ、である。小穴さんは臍の緒の包みを「一字が五センチぐらいの大きなかい書で横尾龍之助と書かれた白い紙包」だったと語っている。ところが、母が父の伯母フキから渡されて持って行った臍の緒の包みは、この記事式にいうと「縦八センチ横五センチぐらいの小さな紙包」だったそうである。なかにはよほど大きいのもあるかも知れないが、臍の緒の包みというものは、まあ大抵は、その位の小さなものであろう。それに一字が五センチぐらいの大きな楷書で名前が書いてあったというのだから、話が難かしくなる。
母は、臍の緒の包みをいれる前に、「縦三〇センチ横一二、三センチの白い紙包」を父の書斎からもってきて棺の中に入れたそうである。それならば、大きな楷書で名前でも何でも書けるだろう。しかし、その紙包には何も書いてなかった。そして内容はむろん臍の緒であるわけはなかった。母は、結婚する前に父にあてて出した自分の手紙を、ひとまとめにして棺におさめたのである。
こういう風に、一ばん大事なところでさえ、小穴さんは記憶ちがいをしているのである。これで「『横尾』だったことを明らかにすること」が出来るのだろうか?
九月二十六日、大阪にいた僕は、東京新聞の記者から、長距離電話で、右の「新事実」なるものをきかされ、意見をもとめられた。僕はナンセンスだと答えた。そして旅先のことでくわしい事は分りかねるが、かりに横尾という姓が明記されていたとしても、そこから横尾その女が芥川龍之介の生母だったという結論だけが出てくるとは限らないだろう、拾い親だった松村氏が、実は横尾氏だったという考え方も、同様に成り立つ筈である、といった。十月六日に僕は帰京し、さきほどの記事を読んだ。翌々日、僕は小穴さんとある席上で会い、いままで書いてきたような事実を述べた。それに対して、小穴さんは「横尾」と書いてあったことを主張されただけで、他のことは一つも否定されなかった。
意見をもとめておきながら、それを抹殺して、一方的なセンセーショナルな記事に仕立てあげた東京新聞は、果して、記事の訂正を肯《がえ》んじなかった。
くりかえしていうが、芥川龍之介が私生児であったかなかったか、そんなことをいうために僕はこの文章を書いたのではない。まったく関係のない人が、根拠のない「時効」を理由に騒ぎたてられては、たまらないだろうと思うからである。
——一九五五年一二月 文藝春秋——