稽古場の神西さん
神西さんの「ワーニャ伯父さん」は、忘れられない芝居である。チェーホフの芝居を演じることも、アーストロフのような重要な役割を演じることも、私にとっては、それが初めての体験だったからだが、そればかりでなく、「ワーニャ伯父さん」の稽古と公演との期間を通して、チェーホフの芝居を読むこと、チェーホフの人物を演じることへのいちばん大切な心構えを、神西さんから学んだことが、ことに、この芝居を忘れ難いものにしているのである。そして、この、チェーホフの芝居を読むこと、演じることへの鍵は、そのまま、すべての近代劇を読むこと、演じることに、通じているようであった。
神西さんの、引き緊った、味わいの深い訳文は、一見、喋りよさそうに見えて、実は、なかなか難かしかった。それは、チェーホフの難かしさだ、と私には思われた。私は、その難かしさの正体を突きとめたいと思い、一日じゅう、台本を読み暮した。食事中や、往来を歩いている時にも、小声でせりふを呟きつづけた。のぼせていたのである。
神西さんは、ほとんど毎日のように稽古場へ来られた。
舞台で、私達が稽古をしていると、稽古場のうしろの扉がそっと開いて、外套の背中を丸くした神西さんが、鞄を両手でかかえ、嬉しそうな、いくらか照れ臭そうな、独特の微笑をうかべて、足音を忍ばせながら入って来られる。それを見ると、私達は、妙に安心したものだ。役の解釈や、演じ方のうえで、分らないことや、確かめたいことが、たくさんある。それが叶えられるという期待がある。が、それ以上に、私の場合には、はじめての大役をうまくやりこなせるだろうかという心配や、長い舞台経験をもつ先輩達の間に、ぽつんと一人だけ置かれていることの不安や、そんなことまでも含めて、こちらの力が足りないために苦しんでいることを、察してくれる人、相談相手になってくれる人が現われたという気がするからであった。
神西さんは、ストーヴの傍の肱掛椅子に腰をおろし、ブライヤーのシガレット・ホルダーを取り出す。せりふを聴きながら、台本をひろげる。眼鏡を額にあげ、ときどき、原書を見くらべる。煙草に火をつける。さて眼鏡をおろし、ホルダーをすこし上向き加減にくわえると、舞台へ眼をむける。唇を引き締め、ひげ剃り後の青い顎を引き、やや額越しに、私達の方へ視線を向ける。するとたちまち、私達は、自分達の役の感情の充実していないことや、せりふのしゃべり方の不自然なことや、身体のこなしのぎごちないことが、つまり、演技の嘘が、気になり出すのだった。自分達がいまつくり出そうとして足掻いている小世界について、自分達以上に、深く心労している人に現にそこに居り、その人の眼が、私達の借りものの感情の衣裳を、すっかり見通しにしていることが感じられて、急に裸にされたような、恥ずかしさと心許なさとを覚えるのだった。
アーストロフには、作者チェーホフ自身の面影がある。彼は教養のある理想家肌の人物であり、自然と人間とを愛し、医師としての務めを果す傍ら、亡びてゆく古いロシアの森を根絶やしにしないために、植林に精を出している。しかし、彼の周囲の現実は、絶望的なものである。彼は酒を飲む。昔、手術中に死んだ患者の記憶が、ときどき不意に彼を襲う。
なるほど、その通りである。しかし、稽古は、けっしてプラン通りには運ばないものだ。はじめにつけた見当が、外れていたことが分ってきたり、こちらの感じ方や考え方が変ってきたりする。チェーホフは、一体、どういうつもりでこの人物を書いたのだろう、というような根本的な疑問に、あらためてぶつかることもあり、そのために稽古がうまく行かなかった日などは、自分にはチェーホフはまるで分っていないのではないか、という索漠とした気分に陥ることもあった。
そういう時は、神西さんは、私の質問にたいして、いつも、実に適切な解答を与えられた。神西さんの一言で、あたりが急に明るくなってゆくような思いを、私は何度したか分らない。
神西さんの指導は、具体的で、徹底していた。その頃、私は、せりふの語尾をのみこんでしまう悪い癖があり、毎日のように、神西さんから注意をうけた。この悪癖はなかなか抜けず、私としては、せりふのもつ感情を正しく表現するために、語尾の力を抜き加減にして喋ったつもりでも、客席へは全然通らないのだった。これでは、一字一句に神経のゆきとどいている神西さんの台本を、ぶちこわしているのも同然だったから、神西さんは、さぞ我慢がならなかったことだろう。
——まだ消えますな、語尾が。はい、今日はここと、ここと……
語尾の消えたところに、全部印をつけた台本を、神西さんは根気よく、たびたび私に示された。
台本のせりふを、隅々までしっかり読み、しっかり言うという、役者にとっていちばん初歩的な、いちばん大事なことを、私は「ワーニャ伯父さん」によって学んだのだった。
最後の幕で,教授夫妻が去った後、舞台は嵐の後のように、ひっそりと静まる。アーストロフも帰り支度をはじめる。
——ここのアーストロフは、深刻になっちゃいけませんよ。チェーホフの言うように、口笛を吹いている気分なんですからね。
——いくらなんでもそんなに明るくはしゃべれないでしょうね。このせりふではね。
——これから仕事場へでかける労働者なんですからね、アーストロフは。大地をふみしめるように、腰をのばして、しっかり立って下さい。
神西さんの丹念な指摘は、限りなくつづいた。
せりふに気をとられると、心の在所が定まらず、感情をしっかり表現しようとすると、その、表現しようという気持だけ、芝居がよけいになるようであった。劇中人物のせりふをしゃべることと、彼の心のドラマを演じることとの間には、完全な一致と、完全な無関係との間の、無限のニュアンスがあり、それを捕捉することに、私は苦しみ通した。それは十年後の今日でも、私に残された問題である。チェーホフに対する理解と、愛とを、極端に押しすすめ、直接、作者の創作の生理にまでふみ込もうとした神西さんに導かれて、私は、役者の仕事を、はじめて知ったと言えるのである。
——中央公論社 チェーホフ全集月報——