文学座時代の矢代静一
矢代静一氏は俳優座から生い立った劇作家である。
ジャン・アヌイがルイ・ジュヴェの秘書だったように、氏が青山杉作氏や千田是也氏の秘書だったかどうか、よくは知らないが、氏が戦争中から俳優座に籍をおき、青山・千田両氏の演出に傾倒し、そこから多くのものを学んだことは確かである。
昭和二十四年、氏は文学座に移り、翌年「アトリエの会」で、福田恆存作「堅塁奪取」の初演の演出をした。
心理の動きを肉体の動きに投影させ、置き換える、その着想や手法が変化に富んでおり、突拍子もない感情の飛躍や、思い切った身体の弛緩《しかん》の生むおかしみが、活気のある笑いを捲き起して、この卓抜な一幕喜劇は文字通り「演劇的瞬間」の充実した連続となった。
私は今でも憶えているが、初日の夜、内藤濯先生は、矢代氏の年齢を、四十歳位かと私に訊ねられた。二十三歳の矢代氏の演出は、それほど行き届いていたのである。
その後も氏は、中島敦の原作から脚色した「狐憑」や、自作の「城館」「雅歌」などの演出を手がけている。氏の抒情的な作品は初期の「アトリエの会」に欠くことの出来ぬレパートリーであった。
しかしある日突然、氏は、今後演出はやらぬと言いだした。「アトリエの会」の企画運営の責任者であった私は、びっくりしたが、演出は健康上よろしくない、劇作に専念したい、第一、作者が演出をするとその分だけ芝居の味が薄くなるような気がするからと氏に言われると、反対する理由がまったくないので、引き下らざるを得なかった。
その後、氏は健康を回復し、こんどは、「ブリタニキュス」「守銭奴」など、フランス古典劇の演出を手がけはじめた。
私が役者として氏の演出に接したのは、「ブリタニキュス」が最初であったが、この演出家はときどき、ふしぎに感覚的な表現で注文を出すので、おもしろかった。
「ネロンは、出てきた時から、もう、恐いほうがいいね」などと言う。
恐いと言っても、いろいろな恐さがあるはずだが、この演出家が、神経質に眉をしかめてそう言い、言い終って、その恐いネロンを一瞬眼前に思い描くような表情を見せたかと思うと、こんどは、いかにもそれに堪能したように、にこにこ笑いだすのを見ると、私には何となく、その恐さが分ったような気がするのだった。
氏は「お芝居」の愉しさをよく知っていて、新劇の舞台にそれが欠けていることを認め、私たちの演技にコクのないことを——つまり、藝になっていないことを、いつも指摘した。芝居を見る愉しみを、「醍醐味」と言った。氏と同様に東京で生れ、東京で育った私は、氏の説に共感することが多かったが、話がこみ入ってくると——例えば「醍醐味」の正体というようなことになると、どこか微妙なところで喰い違いがあるような気がした。氏は歌舞伎にはあまり興味を示さず、宝塚歌劇の話をする。これが、私にはチンプンカンプンなのである。同様に氏から見ると、私の歌舞伎談義などは、徒《いたず》らに古風に見えたに違いない。
「守銭奴」を一ツ橋講堂で上演した時、たまたま来日中のガブリエル・マルセル氏が、見に来て、帰りに楽屋へ寄り、観客の反応がコメディー・フランセーズの舞台とまったく同じ箇所で同じように起る、たいそうおもしろかった、と言ってくれた。自ら劇作もするこの老哲学者の言葉をきいて、氏はしばらく黙っていたが、やがてぽつんと、「モリエールは偉大です」と言った。
このごろ、氏の演出の虫は、おとなしくなったように見えるが、私などには、少々残念な気がしないでもない。
——一九六五年三月 NLT——