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決められた以外のせりふ81
日期:2019-01-08 21:07  点击:314
 原田義人のこと
 
 
 原田義人と知り合ったのは、加藤道夫の紹介による。原田と加藤とは、府立五中の同窓生だった。
 加藤の自筆の年譜によると、昭和十五年——十六年の項に、「鳴海弘、原田義人、鬼頭哲人等を加えて、研究劇団『新演劇研究会』を結成」という記事があるが、原田とはじめて会ったのは、おそらく、昭和十五年であっただろう。そのころ、加藤と私とは、芝居をやる相談に熱中していた。そして、私たちの考えでは、外国文学の勉強をしている友人たちの力をかりることが、どうしても必要なのであった。
 築地の国民新劇場(もとの築地小劇場)の廊下に、小山内薫の胸像が立っている。そのすこし奥の、廊下の曲り角で、原田に紹介された。三人とも金ボタンの制服だった。その角を曲ると、「きつね」という、へんな名前の食堂があるのだが、その時はあいにく満員だったので、止むを得ず、立ち話をした。止むを得ず、というのは、その日、原田は、風邪をひいて、咽喉《のど》に湿布をしていたからである。長くのびた髪を、私は、やはり風邪のせいかと思ったが、これは、そうではないことが、後になって分った。
 みじかい幕間の立ち話だったせいもあって、次に会う日取りと場所とを打ち合せたほか、大した話もしなかったように思う。原田は、口はあまりきかなかったが、よく笑い、こちらが何か話しかけると、まだほとんど何も言わない内から、うん、うん、と頷《うなず》くようにして、先を促した。別れ際に「じゃ、また」と言い、会釈したままの形で、ちょっと武士のような眼つきになり、それから、丁寧なおじぎをしたのが、ひどく印象にのこった。
 原田は、私たちの集まりに顔を出すようになった。神田の錦橋閣という貸席へ、隔日に集まって、戯曲の読み合せをしたり、議論をしたりするのである。
 こういう集まりの常で、芝居の理論や、文学に関心をもつ理屈型と、とにかく自分たちで芝居をやらなければ何もはじまらないではないかという実行型とが、群居する中にあって、原田は、いつも、両者の平衡を保つ錘《おもり》のような存在になっていた。
 議論に熱中してくると、気負いたった二、三人だけがしゃべり、後の者は、つい黙りがちになってしまう。そんな時、原田が、にこにこ笑いながら、黙っている一人に声をかける。「君、どう思う?」理屈っぽい話や、議論が苦手な者にも、楽に口を開かせる気分が、原田の話しかけの中にはあり、座の勢いに気押されない原田を見ることが、当面の議論とは違った意見をもちながら、口に出すことをためらっている人たちにも、安心して口をきかせる力になるのだった。「そういう考え方も、あるわけだ」と、あいかわらずにこにこしながら、原田がつけ加える。すると、そこから、新しい問題がひらけてくる。そういうことが、幾度か、あった。私たちは、その集まりで、ダルクローズ体操をしていたが、べつに舞台に立つつもりもなく、そんなことはしなくていいはずの原田が、いちばん出席率がよかった。
 新演劇研究会は、昭和十六年十一月に、第一回発表会をやった。一幕物の三本立てで、原田は、その内、ポール・グリーン作の「ろくでなし」という、ひどく抒情的な芝居を演出した。これは原田の好みというよりも、訳者の加藤道夫の好みの方が、ずっと勝った芝居だった。この時は、私は他の一つの演出と、役者とを兼ねていたので、原田の演出については、ほとんど何も覚えていない。プログラムの、演出者の言葉の中に、「朱色の塔の(かなしい?)幻想」というような文句のあったことを、うろおぼえに、覚えているだけである。
 翌年の第二回発表会に、原田は、役者として舞台に上った。後にも先にも、ただ一度の経験だったろう。モリエールの「亭主学校」の公証人の役で、最後の幕にちょっと出るだけだが、せりふが一つある。「私は正規の公証人です」というだけだが、そのたった一つのせりふを原田はひどく気に入って、後々まで、話の種にした。
「みんな早くせりふを覚えてくれよ。おれはもう覚えた」稽古中にそんなことを言って、皆を笑わせたりした。
 発表会は、七月、暑いさかりだった。国民新劇場には、むろん、冷房装置はない。スガナレル役の私は、文字通り汗みどろになり、やがて、芝居は幕切れに近づいた。鬼頭哲人の警部と、原田の公証人とが出てきた。
 公証人の前へとんでゆき、せりふを言いながら見ると、原田は、まったく、原田のままの顔で、こっちを向いていた。かつらと、桃色のメーキャップと、もったいぶった衣裳にもかかわらず、そこにいるのは、原田であった。
 と、その青いメバリを入れた眼が、いつもの、武士のような眼になり、おそろしく大きな声で、せりふが鳴り響いた。「私は正規の公証人です」——私はびっくりして、彼の手から、鵞《が》ペンを取りそこねた。原田は依然として、武士のような眼で、こっちを見ていた。しかし、手は素早く動いて、私が鵞ペンを取り易いように、インク壺を傾けていた。その顔は、「私は原田義人です」といっているようだった。
 
 その年の九月、私たちは繰上げ卒業で大学を出た。
                                               ——一九六〇年一一月 カオス——

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