鳩のいる病室の窓で
「調子はよさそうじゃないか」と、見舞いにきてくれた友人たちが言う。「顔色もいいし、頬っぺたがふくらんでいるし、声も前と変らないし、全然元気じゃないか」
ありがとう。食欲も大いにあるし、今週の体重は六十・五キロで、手術前の体重をやや上廻ったし、血沈がまだ三十二もあるのは残念だが、これも徐々に良くなるから心配はいらないそうだしね。あと一と月の辛抱で、手術後の内部検査をうけるところまで、やっと漕ぎつけたわけだが、検査がはじまるころには、入浴も許可されるそうだし、やがて、ぽつぽつ散歩でもできるようになれば、もう退院も間近ということになるらしい。
「痛いかい、手術は?」
いや、痛くはないさ。麻酔がきいているもの。意識が全然ないんだから。
「さめた後が、痛いだろう」
いや、さめた後でも、痛いという感じはほとんどなかった。まったくなかったといってもいいくらいだな。ちょっと意外だった。
「ほう。じゃ、楽なものだな」
いや、楽じゃないよ。なんともやりきれない気分だったね。胸がずうっと痺れて、重いような、息苦しいような……
「虫の息?」
いやいや、そんなんじゃないんだ。元気なんだよ。なんだか、無我夢中で元気だったね。興奮していたんだろうね。
「ふうん。よく分らないが……まあ、とにかく、たいへんだったな」
歯痛の経験のない人に向って、歯痛の感覚をいくら説明しても、分らないのがあたりまえである。健康な人には、あの手術の話は、通じないのが道理であろう。そこで、私は答える。
——ありがとう。まったく、たいへんだったよ。
この「たいへん」とは、肺を切る手術——正式にいうと肺切除術——のことで、毎年、全国で、およそ二万人から二万五千人ぐらいの患者が、この手術をうけている。したがって、私の体験は、ちっともめずらしいものではないし、後に書くように、手術の経過がしごく順調だったから、辛い思いをしたといっても高は知れているのだが、当人(と家族)にとっては、まことに切実な体験であった。
肺切除術の歴史は、まだ日が浅いが、それでも、一般に行われるようになってから、もうおよそ七年ぐらいになるだろう。
肺結核にたいする外科的治療法としては、ほかに、胸郭成形術や、横隔膜神経捻除術や、充填《じゆうてん》術などがあるが、切除術は、いちばん新しい方法であり、今日までのところでは、もっとも進んだ方法であるといえよう。他の方法は、いずれも、いわば病巣を生き埋めにして、菌の活動を封じてしまうのだが、切除術は、肺の病巣のある部分を切りとってしまうのだから、もっとも抜本的であり、完璧な方法なのである。
(むろん、他の方法も、行われていないわけではない。ことに胸郭成形術は、切除術の追加補正手術として、併用されるのが常である)
なにしろ、肺や気管支に直接メスを入れるのだから、よほど高度の技術を要する手術にちがいない。それだけに、初期のころには、手術による死亡例も必ずしも少ないとは言えなかったようだが、七年後の今日では、もうそんな心配はほとんど要らなくなった。
とはいうものの、ほかならぬわが身に起ることとして考えると、「ほとんど」が「絶対に」でないことは、たとえようもない不安である。ごくわずかだが、死亡率はあるのだ。
死亡率などというものは、内科的治療をうけていた間は思いもよらなかった考えである。
昭和二十六年五月、左肺上葉に拇指頭大の空洞を発見、慶応病院に入院。これが、私の病気のはじまりである。このときは、当時さかんに行われていた気胸療法がみごとに効を奏して、三カ月で退院、以後八カ月ほど休養をとった。
昭和三十一年三月再発、また慶応へ入院。前年「ハムレット」を演じ、「なよたけ」を演出し、さらにこの年の一月「ハムレット」を再演したための疲労がこたえたのである。このときもストレプトマイシン、パス、ヒドラジッド三者併用の化学療法のおかげで、三カ月で退院、九カ月休養。
そして一昨年、昭和三十三年の十一月。私たちは東横ホールで「マクベス」を上演したが、その公演が終ったころから、妙な咳が出るようになった。痰も出る。熱はないが、一月公演は休むことにした。ハムレットといい、マクベスといい、西洋古典劇の主人公のヴォリュームのあるおびただしいせりふは、どうも、傷のある私の肺には負担が多すぎるらしいのである。ラジオやテレビの仕事も週一回に限って、つとめて休養をとったが、一向に効果が見えない。またか、と私は暗然とした。三月公演も休みと決め、ラジオ、テレビもすべて止めて、最初の発病以来お世話になっている慶応病院の五味博士の診察をうけた。果して、二度目の再発。手術をすすめるという診断であった。
さて手術となると、よくよく考えなければならない。
たとえ一パーセントの死亡率でも、ゆるがせにはできないし、肺や肋骨を切除して、肺活量が減じ、体の恰好が変りでもしたら、役者としてはたいへん具合のわるいことになる。そうかといって、それやこれやを思いつめて、睡眠不足にでも陥ったら、ますます痩せて、手術の条件をわるくするばかりだろう。何はともあれ、外科の先生と十分に相談しなければなるまい。しかる後に、大いに体力と気力とを充実させ、物心両面の備えを固めつつ、手術のときに最高の体調になるようにもってゆかなければならない。——こういう点では、肺の手術を受ける患者は、いくらか、危険な高峰を目ざすアルピニストに似ている。地図のかわりに体温表をながめ、ピッケルやザイルを点検するかわりに注射や薬を欠かさない。規則的な食事と十分な睡眠とは、必須の条件である。隊長の指揮に従い、氷河をこえ、アイスフォールを乗り切って、みごとに山頂に立つことができれば、冷たい鮮烈な空気が胸いっぱいに流れこむだろう。病気は根治するのだ。そして後は、下界への道、健康への道を一気に下るのである。
杉村春子さんの御主人、石山博士は慶応の心臓外科の先生である。こういう際には恰好の相談相手で、いろいろ参考になる意見を伺った上、念のため、心臓の検査をお願いした。疲れたり、激しい運動をしたりすると、脈がちょっと結滞らしいものになることがあるからだ。検査の結果、軽い期外収縮で、手術にはまったく差支えなしと分った。
同時に、おなじ慶応の肺外科の浅井末得博士にお会いして、手術についての具体的な話を伺った。手術に危険はないか、二度目の手術で肋骨は何本とるのか、体の形は変らないか、肺活量は減らないか、術後どのくらいで仕事ができるようになるか、その他、心配な点を、洗い浚《ざら》い質問した。浅井博士はレントゲン写真を見ながら、私の心配は術前の治療や検査によって、また従来の手術の結果が示す実例によって、ほとんど解消されるはずであることや、医学的に不安が認められる場合には手術は行わないことや、このままにしておけば、健全な左下葉や右肺もいずれは菌に犯される可能性があり、そうなってしまってからでは、手術は難かしくなるか、不可能になるであろうことを、諄々と説明された。
五味先生の診断で、すでに八分通り心を決めていた私は、浅井先生の話で、完全に手術(左肺上葉切除)に踏みきることができた。
つづいて、手術の際、執刀をお願いする加納保之博士にもお会いした。加納博士はレントゲン写真の所見を述べられたのち、「大丈夫ですよ、まだ若いのだから」と、笑いながら冗談のようにつけ加えられたが、私はまた、肺切除術の日本における開拓者のひとりとして、令名の高い博士が、思いがけず若いのに、冗談ではなくおどろかされた。
手術は十一月中旬ときまった。浅井先生の指示に従って、菌に耐性の生じているストレプトマイシンをカナマイシンに切り換え、術前の治療がはじまった。術前の治療がいい加減だと、後で、気管支瘻とか膿胸だとか、厄介なことが起りがちだから、油断はできない。
夏の三カ月、北軽井沢で寝たり起きたりで過した甲斐があって、体重も増し、血色も良くなった。素人目には、まったく健康に見えたかも知れぬ。
九月の末、入院と手術の日取りについての打ち合せのため、病院へ行き、ほ号病棟五階の研究室の浅井先生をたずねた。
先生は手帖のページを繰りながら、
「入院は、この間電話でお話したように、十一月のはじめがいいでしょう。手術は中旬がいいのですが——そうですね、十三日はいかがです」
「結構です」と答えて、私はひょっと思いつき、笑いながら言い足した。
「金曜日じゃないでしょうね?」
「ええ、金曜日です。加納先生の手術日は、毎週金曜なんです。いけませんか?」
十三日の金曜日。いけないかときかれれば、いけないと答える理由はなさそうだが、なんだか、気になる日取りである。
「かまいません。しかし家の者が気にするかも知れません。できればもう一週間先の方がいいかと思うんですが」
「ええ、それでも結構です」
打ち合せは一応、それで終った。後で分ったことだが、その十三日の金曜日は、ご丁寧にも、仏滅と三りんぼうにも当っており、たまたまその日が誕生日であった岸信介首相は、招待客の気分を考慮して、予定していたパーティーを、やはり一週間延期したという。
しかし私は、結局延期しないことにした。
わざわざ縁起のわるい日を選んで事を行ういやがらせの趣味は、私にはない。だが、手術をうけるのは私一人ではなく、手術場には手術場のスケジュールというものがあるはずである。手術の順番は患者の病状に基づいて医師が決定すべきものであって、患者がわがままを言いだしたら、きりがないだろう。それに、一週間遅らせてみたところで、どうなるものでもあるまい。退院が一週間遅れるぐらいが落ちであろう……
それから、これはちょっと不謹慎かも知れぬが、そんな縁起のわるい日には手術場も混まないだろう、ということを考えた。
むろん、混んでいようが空いていようが、先生方の手術の手順に変りがあるはずはない。しかし、自分の手術の日には、手術場は空いているだろうと想像することは、空いたバスに乗ったり、空いた理髪店に入ったりした時のように、なんとなく気持のよいことだった。
十一月五日、入院。主治医は湯浅鐐介先生。さっそく、検査がはじまる。
気管支鏡検査の苦しいことは、いろいろな人から、十分すぎるほど聞かされていた。あんな苦しいものはない、あれにくらべれば手術なんか楽なものだ、という類いの体験談をいやというほど聞かされていたから、内心穏やかではなかった。
ところが私の場合は、実に何でもないことであった。なるほど、咽喉にキシロカインを注入して、だんだん咽喉が太くなってくるような妙な感じがした時には、これは大変だ、と思ったが、仰臥して頭をのけぞらせ、口から気管支鏡を入れる段になると、操作する石原先生がお上手なのか、私の受け入れ方が素直なのか、おそらく両方だろうと思うが、すらすらと片づいた。
つづいて気管支造影検査。これは気管支の細かな状態を知るために、造影剤(ヨードを主剤とする白い油薬)を鼻腔から気管支へ注入してレントゲンで調べる検査である。これも大したことはなかった。ただ数日後まで、咳をするたびに、やわらかいチューインガムのようになった造影剤が、後から後からいくらでも出てくるのには閉口した。
病室へ帰ると、看護婦さんがベッドの頭の方を低くしてくれた。脳貧血に備えたわけだが、朝昼禁食で空腹に堪えかねていた私は、ベッドにあぐらをかいたまま、バナナを六、七本平らげて、やっと息をついた。
六日、心電図。七日、肺機能検査。九日、肝臓検査。十日、左右別肺機能検査。十一日、ふたたび心電図。これらの検査は、手術の安全を期し、術後の肺の状態や機能を予見するために、欠くべからざるもののようである。
十二日、麻酔科の山崎先生来診。麻酔は戦後急速に発達した分野で、今日では、内科外科などと並んで、麻酔科が出来ていることは、周知の通りである。肺や心臓などの難かしい手術が可能になったのは、麻酔の発達という裏づけがあったおかげらしい。ことに肺切除は、術中の患者の呼吸を自由にコントロールできる閉鎖循環式の麻酔のおかげを大いに蒙っているそうである。
酒や催眠薬をのんでいたかどうかを訊ねられる。こういうことは麻酔のきき方(従ってその調節)と大いに関係があるらしい。薬は数年来用いず、酒は、まあ、普通よりちょっと多く飲んだが、この一年間はまったく飲んでいない由を答える。夜、手術をする左上半身の剃毛。予期したことだが、背中の毛なんて、剃るのははじめてで、実にへんな気がした。
さて、いよいよ十三日。
朝六時ごろ、まだうとうとしている内に、基礎麻酔の注射、つづいて催眠剤をのむ。八時ごろ、また注射。ねぼけ眼のところへ次々と麻酔の注射をうつのだから、まことに陶然とした気分になってくる。
九時ごろ、輸送車《ストレツチヤー》にのせられて手術室へ入ったが、もうかなり薬が効いていると見えて、眠っているとも覚めているともつかぬうとうとした状態で、手術台に移された。——ゆかたの寝巻が手術着に着せかえられるのと、足首に輸血の針がさされたのと、何か訊こうとして口を動かしたが舌がもつれて言葉にならなかったのと、無影燈の光が妙に赤っぽく見えたのと、そのどれが先でどれが後だったか——そのままで、後の記憶はない。
眼をあけると、ベッドの裾の方に、にこにこ笑っている家の連中の顔が見える。おや、みんないるな、と思いながら、ちょっと頷《うなず》いたような気がするが、そのまま、また眠ってしまった。
実はこの時は、もう手術が終って、自分の病室のベッドに寝かされていたのである。
手術は四時間ほどかかったそうで、厄介でもなく簡単でもなく、手術の難易という点では、まず中位であったらしい。看護婦さんの話によると、眠ったまま、時々鼻唄をうたっていたという。のんきなものである。
ふたたび眼をさまし、湯浅先生や石山先生や家の連中とちょっと話をして、また眠ってしまう。こうして、十三日の金曜日は文字通り夢魔のように——と言いたいところだが、はなはだあっけなく終った。
翌日。熱がある。枕元に大きな酸素ボンベが立っている。重苦しい気分だが、声を出してみると、嗄れてはいない。しっかりしている。嬉しかった。切除した左肺上葉はほとんど肺の機能を失いかけていたそうである。
掛蒲団の下から、ゴム管が出ている。管の先はガラスの容器につながれ、傍で小型のモーターが静かな音を立てている。術後の肺の中に溜まる血液や滲出液を排出するドレーンである。左の胸には、全然感覚がない。したがって痛みもない。ただ、胸の中に湯たんぽか何かが入っているような、重い感じがある。私は興奮して、大きな声で快活に話し、たしなめられた。
四日目にドレーンが外された。看護婦さんの手を借りて、起き上ってみると、気が遠くなりそうだった。湯浅先生の許可があったので、ひとりで便所へ行ったが、ふらふらしてうまく歩けない。壁づたいに、一歩一歩ふみしめるようにして帰ってくると、精も根も尽きはてたような感じがした。寝たままの洗面、食事がつづいた。咳をすると、胸の中が痛む。
憔悴していたが、私は元気だった。ほんとうに元気だったのである。私はつとめて食べた。流動食を粥食に、さらに常食に、できるだけ早く切りかえた。深呼吸につとめ、左腕の運動に精を出した。
ただ、夜眠れないのには、閉口した。いくら鎮静剤の注射を打ってもらっても、四時ごろには眼がさめてしまう。術後、あまり強い薬は使えないのである。こういうときに寝がえりを打てないのは、実に辛いもので、仕方がないから、気の遠くなるような思いでベッドに起き上る。起きてみても、なにもすることはない。また仰向きに寝る。しばらくすると苦しくなって、また起き上る。朝の四時ごろからこんなことを繰返していては、堪ったものではない。
ベッドに寝ていると、五階の病室の窓からは、空が見えるだけである。夜が明けると、神宮外苑の森から、鳩が群れをなして飛立ち、あたりをひとめぐりすると、病院の屋根へ舞い降りてくる。
眠れないままに、私は毎朝、ベッドの中でカメラを構えた。刻々に明るくなる空の光に絞りを合わせ、ファインダーの中へ鳩が入るたびにシャッターを切っている、といつの間にか時間が経った。うまく撮れたのもあり、窓枠だけしかうつっていないのもあったが、後から考えると、べつにフィルムを入れる必要はなかったのである。
二週間で平熱に復した。経過ははなはだ良い。湯浅先生の指示通り、深呼吸を励行したことや、熱に鈍感なせいか、食欲の落ちなかったことが幸いしたと見えて、残った左肺下葉が目立って伸びてきたらしい。肋骨を切除する二度目の手術は、しばらく見合せることになった。
三週間。下葉は依然として伸び、ふくらみつづけている。上葉をとった後の空隙は、まもなく下葉によって満たされるだろう。十二月三日、ついに補正手術を行わないことが確定した。肋骨をとらずに済んだのだ。一回の手術ですべてが終ったのである。私がどんなに喜んだか、お分りいただけるだろう。しかも、それに劣らず嬉しかったのは、左胸の重苦しい感じが、いつの間にかすっかり薄らいでしまったことであった。
四週間目から、体重がふえはじめた。以来およそ一週間に一キロの割でふえつづけてきたが、六十・五キロでどうやらひと休みらしい……
はじめに書いたように、私の手術の体験は、決してめずらしいものではないし、どこといって、めざましいところがあったわけでもない。経過もしごく平穏無事であった。しかし、その平穏無事ということの中にこそ、医学の理想があるように、私には思われるのである。もしそうとすれば、私は、理想的に治療され、看護された患者だったといえるだろう。先生方と看護婦のみなさんとに、ほんとうにありがとうございましたと篤《あつ》くお礼を申しあげて、この走り書きの筆を擱《お》くこととする。
——一九六〇年三月 婦人公論——