劇団の旅
私たちの劇団は、東京で、年に五回、芝居をする。それを、そのまま、京阪公演にもってゆく。
神戸や名古屋へまわることもある。そこで、多い人は年に五回少ない人でも年に一回は、京都・大阪へ出かけてゆくことになる。
ひとりでゆっくり旅行をする暇が、私たちにはなかなかないので、この定期的の京阪公演は、大いにたのしみである。朝、東京駅のプラットフォームで落ちあうと、みんな、何となくめかし込んでいるから、おもしろい。
若い連中は、もとよりだが、杉村春子や三津田健や宮口精二までが、新調のヴェールのついた帽子をかぶったり、派手なマフラーをしたり、おろしたてのスポーツ・シャツを着たりしている。むろん私も、ネクタイぐらいは、ちょっと凝る。
ところが、長期にわたる地方公演だとこうはゆかない。東北・北海道公演、中国・九州公演などというのが、おおよそ一年おきに行われるが、これは、一カ月以上におよぶことが多く、しかも、大体においてノリショである。ノリショ、略さずに言えば、乗りこみ初日であって、こういう地方公演では、福岡や札幌のような例外はあるが、一都市一日公演というのが、圧倒的に多い。A市で、夜芝居をする、翌朝の汽車でB市につき、すぐまた芝居をして、次の朝C市へ向う、という具合だから、その忙しいことは一と通りではない。汽車も「こだま」のようなわけにはゆかない。乗りかえがある、煤煙が飛びこむ、とても、おしゃれをしている暇なんかないのである。一カ月以上の旅となると、いきおい、旅行鞄もふくれあがる。照明や音響効果の器材をもって歩くから汽車の乗り降りにもひどく骨が折れる。そこで、長期地方公演に出発する日の東京駅あるいは上野駅では、わが座員たちは、女優さんはあくまでシムプルにスポーティーにと考える結果、見るからに、何でもない恰好をしており、われわれ男優は、弱そうな登山ガイド、あるいは上品な担ぎ屋のごとき恰好をしている。
こういう長い公演旅行には、いろいろおかしな出来事がつきもので、話しだせばきりがない。
飛騨《ひだ》の高山で公演を終えて、プラットフォームで汽車を待っていると、反対側のフォームについた汽車から、地方の団体旅行のお客さんがぞろぞろ降りてきた。とたんに、演出部の研究生のA君が叫んだ、「お母さん!」
思いがけないところで、何年ぶりかで東京へ行っている息子の顔を見たお母さんは、一瞬きょとんとし、やがて、A君そっくりの丸いかわいい目をしばたたいた。これには、たちまち「飛騨高山涙の再会」という外題がついた。
若い女優のB嬢は、はじめての九州地方の長旅なのに、どこへ行っても、楽屋へ訪ねてくる知人や友人がいて、みんなに不思議がられた。どんな小さな町でも着くとすぐ電話をかける。すると、必ず誰かがB嬢をたずねてくるのだ。
つまり彼女は、ふだんからじつに丹念に人とつき合っているので、遠い親類や小学校の級友や先生はもとより、昔の会社の友達や、近所の人達や、仕事で一緒になった放送局やテレビ局の人達とも小まめに(あるときは筆まめに)消息をかわし合っていたのである。長旅は苦労が多いものだが、B嬢はふだんの心掛けのおかげで、その苦労をだいぶまぬがれているようであった。
一昨年の東北・北海道の旅にも、B嬢は加わった。北海道ははじめてだという。
今度はまさか、とみんな思っていた。ところが、おどろくべきことに、今度もまた、どこの町でも、誰かが必ず彼女を訪ねてくる。一日、バスで阿寒湖へ遊びに行った。マリモを見た後、湖畔の食堂で、コーヒーをのみながら、私たちはバスの出発を待った。やがて、車掌が知らせに来た。ぞろぞろ乗りこんで、気がつくと、B嬢がいない。
「まさか阿寒湖にまで知合いはいないだろう」と誰かが言ったので、大笑いになった。そこへB嬢があらわれた。
「すみません。お墓まいりに行ってたんです」
「えっ?」
「父方の伯母の家にずっと昔からいた女中さんのお墓があるんです」
一同は、マリモのように沈黙した。
——一九六一年六月 旅と宿——