津和野
今年の六月、ロバート・ボルト作の「わが命つくるとも」という芝居をもって関西、山陽、九州の地方公演に出かけた。
幸い東京公演が好評だったため、関西各地の入りも上々で、山陽道にさしかかる頃には、みな何となくうきうきした気分になっていた。上戸はもとより、下戸にも、瀬戸内の魚の味がたまらないからである。
徳山公演の後、次の博多公演まで二日ばかり暇がある。東京を発つ前から、この二日の休みを利用して、秋芳洞や津和野や萩へ廻ろうと計画していた何人かがあった。私も同行を申し出ようかと思ってはみたものの、何分、出づっぱりの主人公トーマス・モアを勤めていることゆえ、旅先で疲れが出るかも知れない、その時の調子次第にしようと、態度未決定のまま出かけて来たのだが、毎晩の芝居が気持よく出来るせいか、瀬戸内の酒と魚に養われたせいか、心身ともにはなはだ快調である。私は二日の休みを津和野と萩に過すことにした。
東京から計画を立てて来た連中は、案内する人があって、自動車で秋芳洞から津和野へ入るという。席の余分はない。私は単独行と決めた。秋芳洞には、余り興味がないから、かえって好都合である。
自動車で、津和野に入る。
谷間を見おろすようにしながら、運転手が「あれが津和野です」と言う。私はびっくりした。
細い道路の両側に、ぴかぴか光る赤瓦の屋並がしばらく続いている。それだけである。
森鴎外は自分の故郷は山に挾まれた狭い町だと書いているが、こんなに狭い所とは思わなかった。津和野という地名には、小盆地とまでは行かなくとも、少なくとも、ある程度の広がりを持つ野のイメージがあるが、これではまるで津和路、あるいは津和筋ではないか。
ぴかぴか光る赤瓦も気に入らない。くすんだ濃いねずみ色の屋根瓦の屋並に、杉や松や桜の木立のまじる風景を予想していた私は、びっくりしたついでにがっかりして、意気はなはだ揚らないままに車を降りた。
何はともあれ、森林太郎墓にもうでなければならぬ。駅で道をたずねると、あの踏切を渡った所ですという。見ると、そこはもう山である。
山門を入ろうとすると、右手の別院か何かの門前に案内書きがある。この中に西家代々の墓、桃井若狭助の墓がある、というようなことが書いてある。西周の墓にはおどろかないが、若狭助の墓にはおどろいた。こんな所で忠臣蔵にお目にかかろうとは思わなかった。こちらを先にする。
西周の墓は、気味のわるい天狗のような石像である。羽団扇のようなものが、正坐した膝の脇に刻まれている。
若狭助の墓は、杉の大木の生い茂った高みにある。藩主の墓だから、むやみに大きい。歌舞伎の若狭助の紋所の四ツ目が、ちゃんと彫ってある。似たような巨大な墓が十あまり建っている。代々の藩主と夫人の墓である。大汗をかいて登って来たのだが、杉木立につつまれた冷たい空気が、たちまち肌を冷やす。
山を降り、隣の鴎外の墓にもうでる。
これは、三鷹の禅林寺と同様、中村不折書の、質素な墓石で、ただ東京と違うのは、その墓の向うに、丸い青野山が、文字通り青々と、美しい背景となっていることである。
さて山門を出ると、あとは鴎外の生家を見るくらいで、これといった当てはない。ぶらぶら町を歩き、津和野大橋のたもとへ来ると、ばかに大きな自然石の句碑が目に入る。
「山茶花の雨となりたる別れかな 夢声」おや、徳川さんは津和野だったのか。
橋の上から川を見下ろすと、おびただしい真鯉緋鯉の群れが、水草の間にたわむれているのが見える。中には一メートルもあろうかと思われるのもいる。津和野は鯉の町だと聞かされていたが、なるほど見事なものだ。
郷土館へ入って鴎外や西周の遺品を見、出てくると、後から追いかけてくる人がある。電話がかかっていますから出て下さいという。引返して電話に出る。
声の主は九州のテレビ局のプロデューサーであった。今あなたが町を歩いていたという知らせがあったので、急に電話をした。山陰の町々を訪ねる番組があり、その津和野の巻を明日撮影するために来ている。それにゲストとして出演してもらえないか。司会は草壁久四郎氏で、今夕津和野に到着する。われわれは今旅館にいるが、とりあえずこちらへお越し頂けないだろうか。
私は今日中に萩へ行き、そこで一泊するつもりであった。しかし、旧知の草壁氏と一人旅の津和野で久々にめぐり会えるとは、望外のたのしみである。
K旅館で、プロデューサー氏に会い、話している内に、この望外のたのしみへの期待がどんどん大きくなり、ついに私は、津和野泊りと決めた。さあそれからが大変であった。
郷土史家のM氏の案内で津和野を見て廻る。出てくるわ、出てくるわ。鴎外や西周の生家はもとより、鴎外の学んだ旧藩校養老館。加古川本蔵の屋敷の門と墓。中村吉蔵の墓。切支丹四番くずれの殉教の地、乙女峠。校正の神様とうたわれた神代種亮の生家。坂崎出羽守の墓。そして新劇女優伊沢蘭奢の墓。
ぴかぴか光る赤瓦は雪に耐えるように釉《うわぐすり》を施したもので、三百年近く経ったものもあること、西周の墓の石像は天狗ではなく神農像で、膝の脇に置かれたのは鎌と稲穂であることなど、M氏の話は止まる所を知らず、私は津和野を隅から隅まで知り尽したような気分になった。
その夜は、遅くまで、草壁氏と鮎を肴に飲んだ。こういうことがあるから、旅はおもしろい。
——一九六九年一〇月 酒——