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決められた以外のせりふ97
日期:2019-01-08 21:16  点击:280
 テレビを見ながら
 
 テレビを備えつけたのは、去年の春だが、それ以来、ラジオを聞くことが、ほとんどなくなってしまった。
 ラジオよりも、テレビの方がおもしろいわけではない。ずいぶんつまらない番組もあるのに、ついつい、終りまで見てしまう。病後の静養中で暇だったせいもあるが、そればかりではなさそうである。たまにラジオを聞いても、声だけしか聞えないことが、たいへん物足りなく思われる。視覚と聴覚と、両方に同時に働きかけるテレビの方が、ずっと強い力で、私達を捉えるのである。こういうテレビの力のおかげで、今までラジオではあまり聞いたことのない番組を、いろいろ見たり聞いたりした。
 その一つに、料理の時間がある。昼の番組で、局によって番組名は異なるが、内容はまったく同じである。一つの料理を仕上げる過程を、料理学校の先生(料理研究家というのであろうか)や、コックさんや板前さんが、適当に説明を加えながら、実演してみせるのである。そこまでは同じだが、それから先が一寸違う。それから先というのは、その実演者の説明の仕方、話し方のことである。
 料理学校の先生方(大抵は中年の女性である)の話しぶりをきいていると、話の進め方や声の調子や色合など、いろいろの違いがあるにもかかわらず、誰にも共通したひとつの型——とまではゆかないが、特色があるように思われた。それは、話の段取りが整然としており、克明で、話の速度も速すぎず、遅すぎず、見ている(聞いている)者の頭へちゃんと入るような話し方である。ノートをとるのにもっとも都合のよい話し方になっている。料理の方は、画像になってあらわれているわけだから、なるほどそれでもいいわけだが、実はそのはっきりした話し方というのが曲者《くせもの》で、書いたものを読んでいるような、書くかわりに話をしているような話の仕方は、ほんとうは話とはいえないかも知れない。すくなくとも、「スズメガイマス。カラスガイマス」(中・高・低)の調子で、「最後に胡椒を入れます」とか、「パセリをあしらいます」などと言われると、料理の作り方を見ているというよりは、手のこんだ動植物の標本をつくっているのを見ているような、豚や大根の手術を見ているような気がしてくる。
 一方、コックさんや板前さんの方は、これもまた人によって調子はさまざまだが、概して説明はうまくない。話上手とか話下手とかいうことはむろんあるのだが、それよりも、料理に夢中になって、ひとりで愉しんでいるという所がある。話の段取りなどはめちゃくちゃで、料理が出来上ってゆくから、それにつれて話すだけである。その料理も、学校の先生方のように、まかすところはしかるべく助手にまかせ、手際よく運んでゆくという風にはゆかず、ほんのあしらいの炒り卵を作るのにも手を抜かないで、いつまでもやっている。
「ほら、こうなったら火からおろすんです。これ、ちょいと狂うと、焦げついちまいますからね。こんどはこう。突つくように、箸を」
 助手が時間を気にして交替を申し出ると、
「へえ、じゃ、お願いします。こんどは、この牡蠣《かき》を……こりゃ小粒ですがね……ああよくそろいましたね、粒が……これ、大粒でもいいんです……ああ、そうじゃない、突つくように。こういうあんばいに」とまた炒り卵へかえってくる。メモなど、とても取れるものではない。
 しかしその話しぶりが上手でも下手でも、長年手がけてきた、自分の作るものの味を信じているところからくる自然な話の調子は、実に生き生きとしていて、愉しい気がする。そうなればもうテレビという媒体は、あれども無きが如きもので、一度、ある板前さんが、和《あ》え物の仕上げに、紫蘇の葉を添えた後、独り言のように、「ああ、これで、しゃっきりしました」といった時などは、その和え物の画像が実物でないことを残念に思ったほどである。
 つまり、お料理番組の解説としては、料理学校の先生方の話し方のほうが適しているのかも知れないが、料理に即したはっきりした話という点では、理路整然としないコックさんや板前さんの方が、本物なのである。
 これは、実は料理の時間に限ったことではなく、娯楽番組は別として、ニュース解説にも、座談会にも、およそ「話」のでてくる番組には、非常にしばしばあらわれる二つの傾向なのである。前者を定着型、他発型とすれば、後者は流動型、自発型と、いえるだろう。
 ぼくらは、小学校で、「スズメガイマス。カラスガイマス」(中・高・低)と読んで平気でいたし、書き方、読み方、綴り方の時間はあったが、話し方の時間はなかった。この頃は、そういう教育にもいろいろ工夫がめぐらされているらしいが、テレビの子供向き、学生向きの時間を見ると(聞くと)、非常に妙な気がすることがある。
 一と口に言うと、子供の話し方が、みんな「いい子」の話し方なのだ。「いい子」というのは、母親が幼児に「いいお顔してごらんなさい」という場合の「いい顔をした子」というほどの意味である。どの子も、どの生徒も、「いい顔」をして、「いい声」で「いい話し方」をしている。大人にとって、都合のいい子供には違いないが、見ていると(聞いていると)何だか背中がむずむずしてくる。そして標準規格型の「いい子」の「いい話し方」には、ほとんど例外なく、ラジオ・ドラマに出てくる子供の物の言い方の影がつきまとっている。
 先生が「今日はカメラについて勉強しようね。A君はカメラは好き?」と訊く。A君は答える。「ええ(中)ぼく(低)大好き(高)です(低)!」
 これは、この間たまたま見た(聞いた)一例だが、こういう場合、B君もC君もD君も十人が十人、この通りの高低で話すといっても言い過ぎではない。あたらしい定着型、他発型が、生れつつあるらしい。
 いや、現に、若いアナウンサー諸氏諸嬢が、微笑をたたえながらぼくらに話しかける時、そういう、大人になった「いい子」の口調が、あるいはそのままに、あるいは古い定着型、他発型と合成されて、ぼくらの耳をくすぐりつつある。
「いかがです(中)か(高)? 五十円で出来たランプ・スタンドとは、とても(高)見えません(中)ね(高)。ほんとうに(高)きれい(中)です(低)ね(高)」
                                               ——一九五七年四月 言語生活——

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