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決められた以外のせりふ98
日期:2019-01-08 21:16  点击:269
 テレビあれこれ
 
 テレビというものは、おかしなものだ。
 家へ備えつけた当座は、とにかく、何から何まで、見てしまう。なんだ、まるで初期の活動写真じゃないか、と思ったり、なんてあくどい宣伝だろう、と思ったりしながらも、ついつい、おわりまで見てしまう。ラジオでは音だけだったのが、目にも見えるようになると、こうもたあいなく引きずり廻されるものかと、われながら呆れるほどで、お料理メモだとか、アイスホッケーの中継だとか、今年の男のファッションだとか、ラジオではあんまり縁のなかった番組まで、見てしまうのである。そんなのはまだいい方で、いちばんおしまいの、明日の番組御案内がおわり、エンドマークの、日の丸がひるがえったり、切りぬきの鳩がはばたいてバラバラになったりするのまで見てしまうこともある。
 テレビぐらい、今、どこで、何をやっているかということを、手っとりばやく見せ、そして聞かせてくれるものはないだろう。なにしろ、テレビの前に坐っていさえすれば、ド・ゴール将軍が、アルジェリアの無名戦士の墓に詣でた後、市民達の前でどんなにこわばった表情で演説をしたか、大関琴ヶ浜が、安念山のするどい寄りをこらえて、どんなにアクロバティックな粘りを見せたか、ボリショイ・サーカスの、スピッツを抱いた熊が、どんなに、赤ちゃんを抱いたおかみさんそっくりに、踊るように内輪に歩いたか、そういうことが、すべて一目瞭然とでもいいたいように、見られるのである。
 テレビには、まだそのほかに、劇場中継がある。クイズがある。のど自慢がある。政府の時間まであって、首相はじめ各大臣が、政府や「わが党」の現状についてうれしそうな顔をしたり、しぶい顔をしたり、あいまいな顔をしたり、用心ぶかい顔をしたりしながら、政治評論家と対談する。なんでも一応、見たり聞いたりしたような気持になるという点にかけては、新聞もラジオも映画も、テレビにかなわない。
 劇場中継なんかは、よく分りすぎるくらいで、物語の進行と、主だった俳優の演技と、情景描写と、観客席の雰囲気とを、適当に、万遍なく、見せたり聞かせたりしてくれるから、肝腎の舞台、劇、劇場の、本来、寸断されたり、限定されたりするべきでない実質、演劇の魅惑は、どこかへ消えてしまうのである。
 解説者とアナウンサーが、幕間をつなぐ対談をする。アナウンサーが「この衣裳の色を、視聴者のみなさんに見ていただけないのは、残念ですね」などといったりするが、実は、見ていただけないのは、色彩だけではないのである。その舞台に起りつつあること、その劇場に起りつつあることは、解説者諸氏にはよく分っているはずで、しかしそういってしまっては実も蓋もなくなるから、「そうですね」と相槌をうつ。この場合、色彩をつたえることのできないモノクロームのテレビ・カメラやブラウン管は、他人の罪までひきうけさせられているわけで、いわば、贖罪《しよくざい》の山羊なのである。
 テレビは、実に大勢の人の顔をみせてくれるもので、人の表情や、しゃべり方や、その相互の関係について、ずいぶん思いがけない発見をすることがある。
 知人や友人や家族の誰彼とよく似た顔を、ひょいと見つけたりするのも、テレビのたのしみである。ぼくも、テレビのおかげで、自分に実によく似た奴を発見した。阪神タイガースの小山正明投手である。まったく、他人の空似ということは、あるもので、われながら、見れば見るほどよく似ている。横顔が似ているとか、口元が似ているなどという生易しいものではなく、どこから見ても似ていて、後ろ向きになるといよいよ似ている。自分で見ても、腹が立つくらい似ているのだから、他人が見れば尚更らしい。
 中村伸郎さんに言わせると、一死、ランナー二、三塁、ボール・カウント2—3と追いこまれたときの、眼の据わった緊張ぶりなんか、ことにそっくりだそうだから、顔形ばかりでなく、気分まで似ているのかもしれない。最後の一球は外角いっぱいのスピード球。ショート後方のフライを、吉田がとって、みごとな併殺! テレビの画面には、ベンチへ引上げる吉田がうつる。そしてぼくは、小山のために、テレビにうつっていない小山とそっくりの顔で、にっこり笑う。テレビはまことに、無情なものである。
                                                               ——放送朝日——

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