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決められた以外のせりふ129
日期:2019-01-08 21:33  点击:357
 最初の感銘
 
 役者は台本を読みはじめます。
 若い役者、ことに、せりふの多い役をもらった若い役者は、台本をうけとると、もうじっとしていられず、僅かな暇をみつけて、貪《むさぼ》るように読みはじめます。
 自分の役ではない人物達の会話が、長すぎるように思われる。が、やっと彼の役が登場します。最初のせりふは、なかなか気が利いている。こいつは面白そうだ。彼の眼が、輝きを増します。身じろぎをしなくなったり、逆に、爪を噛みはじめたりするのは、そろそろ夢中になりだした証拠です。自分の役の人物が怒ったような口をきくと、彼も眉間に皺をよせ、唇をとがらせる。思わずふきだしたり、涙ぐんだり、呼吸をとめたりする。気に入ったせりふがあると、ちょっと、口に出して言ってみたりする。まわりの人はびっくりするが、ちょうどそこへ待っていたバスが来て、彼の読書はやむなく一時中止されるのです。
 こういうせっかちな読み方も、全部が全部、まちがっているとはいいきれません。
 少なくとも、出来合いの方式や他人の意見を始終気にしながら、作品の主題や、場面の構成や、人物の性格などをあれこれと思い惑いながら読むのにくらべれば、自分の生理や感情を手放しにしたこういう読み方のほうが、はるかにましです。また事実、若い役者にとっては、こういうせっかちな最初の読書から生れたとんでもない効果が、一種のスプリング・ボードのような作用をして、その後の彼の役の形成を偶然助けることが、ないとはいえません。
 しかし、こういう手放しなやり方は、いくら何でも乱暴すぎます。海を見た途端に、興奮して、いきなり真逆様《まつさかさま》に飛び込むようなものです。岩に頭をぶつけなければ、不幸中の幸いで、せめて着ているものや穿きものぐらいは脱いだ方がいいでしょう。
 自分の役のことばかり考えているから、とても、戯曲全体を読むことはできません。それならば「書き抜き」の方がいっそ具合がよいことになる。そこで自分の役名に赤鉛筆でカギをつけて、台本を「書き抜き」としても読めるように工夫する。工夫は認めますが、はじめのうちはそんなことはしない方がよいのです。
 私の知っている老練な役者達は、はじめて台本を読むときには、けっしてそういう読み方はしません。落ちついた気分で、一と通り目を通すというほどの、傍目《はため》には、見るからに、何でもないような読み方をします。むろん、ただ読み流してしまうのではありませんが、一々の人物を深追いせずに、戯曲全体の出来上り方をずっと見わたすというやり方です。思わず笑ったり、息をひそめたりすることもあるかも知れませんが、そういう自分の生理や感情にも、あまりいちいちこだわらずに、その戯曲のもっている固有の質を感受しようとします。彼等は長い経験から、戯曲というもの、書かれたせりふというものが、一種の仮の結晶であること、いったんその結晶を解いてしまえば、その内部には、人生そのもののように不定形な、おそろしい、たえず揺れ動く渦巻のようなものが口をあけていること、その中へ身を投じてしまったらもうなかなか後へは引き返せないこと、対岸にたどりつくために払わなければならぬ努力や、その喜びや苦しみを、よく知り抜いているので、いきなりその結晶を突つくような性急な真似は、けっしてしないのです。
 はじめて台本を読んだときに受けた感銘は、大切です。
 はじめて読んだときには、面白いと思い、感心した台本が、稽古がすすむにつれて、だんだんつまらなくなってきたり、あるいはその反対だったりすることも、全然ないとはいえませんが、それ以上に、最初の感銘が、役を演じるうえに決定的な働きをすることの方が多いように思われます。
 稽古をしているうちに、演技に生動感がなくなり、毎日、ひとつ所を堂々めぐりしているような状態に陥るのは、出発点であった最初の感銘をいつの間にか忘れてしまっている結果であることが、少なくないのです。しかし最初の感銘を日ごとに新たにするということは、口でいうほど易しいことではありません。
 はじめて台本を読むときには、いろいろな気構えや先入観を捨てて、できるだけ素直に読むのが、いちばんいい読み方だと思います。生理的にも心理的にも、あまり力むのはよくありません。とんでもない思い違いをしたり、作者の意のあるところが十分に汲みとれなかったり、感じ方が弱かったとしても、それが、自分自身に嘘のない、無理のない読み方をした結果であれば、それでよいのだと思います。ほんとうの出発点は、そこにしかないのです。足りないところは、やがて補うこともできるでしょうが、出発点を誤ると、いつまで経っても、自分で戯曲を読む眼、自分で戯曲をつかむ力を、養うことが出来なくなります。
 私は、はじめて台本を読むときには、一定の速度で最後までずっと読んでしまいます。分らない所や、ひっかかる所が出てきても、立止ったり、後戻りしたりせずに、とにかく終りまで読んでしまうのです。幕の区切れでも、あまり休みません。途中邪魔が入ることは、むろん禁物です。長い習慣からそうしているのですが、理由は単純で、そうしないと面白くないからです。戯曲を読んだというしっかりした手ごたえが感じられないのです。芝居は、時間の流れから切り離しては本来成り立たないものです。芝居は、容赦のない時の流れの中に、あるときは速く、あるときは遅く、その作品に固有の速度と調子で展開され、一定の時間内に終了すべきものです。戯曲もまったく同様で、どんなにすぐれた戯曲でも、その作品の固有の速度を壊すほど速くあるいは遅く読んだり、たびたび中断しながら読んだりしては、その本質にふれることができず、一向に感銘が湧かないからです。

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