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小宮幸治が、黒沢修二エネルギー庁長官とともに、国会から通産省に戻ったのは、午後一時少し前だった。
国会での吉崎公造代議士の質問は、言葉遣いの激しさと大音声による音響効果は十分だったが、内容にはさして新味がなく、黒沢長官がもの慣れた態度でその舌鋒を巧みにそらした。それでも、吉崎は、長官のいんぎんな陳謝と新聞カメラマンのフラッシュに、大いに満足した様子だった。
昼休みの時の石油第一課の部屋は、職員がほとんど昼食に出かけていたが、課長の寺木鉄太郎だけが、窓際の机に向かって、調べものをしていた。小宮の顔を見た寺木は「ご苦労さん」というように軽くうなずいてみせた。
寺木鉄太郎は一風変わった役人だ。博覧強記と見通しのよさは、通産省随一とさえいわれているのだが、些事雑務は一切顧みない。しかも、何を重要事とし、何を些事とするかの選択も全く主観的だ。現に石油第一課長になってから一年以上たつのに、公害問題には関心を示さない。これでは、石油第一課長としての職務の半分を放棄しているに等しい。このため役所内での評判は必ずしも芳しくなかったが、彼自身はそれを気にかける風さえない。
「めしを喰いに行こうか」
書類を片づけながら、寺木がいった。国会の報告を聞く気はなさそうである。
寺木と食事するのはいやなことではない。いつも、歴史、文学、芸術から芸能、娯楽にいたるまで、実に雑多な話題をしゃべってくれるのだ。
だが今日の寺木はいつもと違った。虎ノ門の交叉点に近い、行きつけのレストランへ向かう間も、店のテーブルについてからも、憂鬱そうに黙り込んでいた。小宮も黙っているより仕方がなかった。
小肥りのウエートレスが、二人の前にハンバーグとライスの皿を乱暴に置いていった。
「また、ドルが上がった」
突然、寺木が独り言のようにいった。
「どうしてですかねえ」
小宮はその独り言に跳びつくように訊ねた。
実際それは奇妙な現象だった。日本の輸出は、昨年秋から急増し続け、国際収支も黒字基調になっている。それにもかかわらず、為替市場だけは、三月以来、異常なドル高になっているのだ。欧州市場でもドルは強いが、日本円に対するほどの値上がりはなかった。専門家たちは、アメリカの高金利政策のためだとか、投機筋のドル買いとかいっているが、どれも十分な説明ではない。
「相場は何かを知っているんだよ」
寺木は短くそういっただけで、また黙り込んだ。
小宮はその意味をはかりかねた。
「君、石油が入って来なくなったら、日本はどうなると思う」
しばらくおいて、また唐突に、寺木が訊ねた。
「さあ……大変でしょうね」
小宮はとまどって、ただにやりとして見せた。
だが、寺木の真剣な目に気押されて、もう一言、
「終戦直後に逆戻りでしょうね」
と、つけ加えた。
小宮幸治には終戦直後の記憶はないが、最悪事態の典型として、相当オーバーないい方をしたつもりだった。だが寺木の反応は逆だった。
「そううまくいくかなあ……」
寺木の白い広い額と眼鏡の奥の褐色の瞳に、深い失望の色が広がっていくのを、小宮は見た。
その日の午後、エネルギー庁の石油部長室で、部内の会議が行われた。
部屋の中央に置かれた安物の応接セットに、西松剛石油部長と四人の課長たちが坐り、小宮幸治ら数人の課長補佐はそれを取り囲んで、パイプの折りたたみ椅子を広げて、腰掛けていた。
「ところで、精製・脱硫能力増強の件ですが……」
山城石油第二課長が、切り出した。
通産省は石油業法によって、石油精製施設の新増設には許認可権限を持っている。米英系資本が半数以上の株式を保有する、いわゆる外資系石油会社の攻勢から、日本資本の民族系石油会社を保護育成する役割を、この権限は果たしてきた。だが、最近では、公害企業反対を叫ぶ住民パワーに阻まれ、石油施設の建設は遅れっ放しなので、施設許認可の権限も、効力が薄れている。
その半面、政府が石油業界に押しつけねばならない事業は増えている。公害対策のための重油脱硫や無鉛化ハイオクタンガソリンの製造、それに原油備蓄の拡充などである。このため、かつてはその癒着ぶりが云々された通産省と石油業界との関係も、いまでは微妙に変化している。
「早期着工が期待されていたM鉱産の大型重油脱硫装置は、地元住民の反対で、用地取得もまだまだ完了しない状態です」
山城は、用意した複写刷りの資料を配りながら、説明を始めた。
「公害防止に必要な低硫黄重油を製造する脱硫装置すら造れんのじゃ、どうにもならんじゃないか」
西松部長は、太った身体を椅子の上でのけぞらせて、ため息をついた。
「それで、これはその代案の一つですが……」
山城課長が資料を指さした。
「M鉱産には、千葉精油所の原油タンクを一部撤去させ、その跡地に大型脱硫装置を建ててもらうんです」
資料では、M鉱産千葉精油所内にある原油タンク群のうち、十四基、約百八十万キロリットル容量を撤去し、その跡に精製施設の増設と重油脱硫装置の新設を行う計画になっている。
この案がもともと、西松自身の発想であることは部内ではもう広く知られていた。
M鉱産は近く韓国の巨済島に出来た石油基地に三百万キロリットル分のタンクを借りることになった。そこから五、六万トンのタンカーで原油をピストン輸送すれば、そう大量の原油タンクはいらない。この韓国の石油基地を利用する、というのが、この案のポイントなのだ。韓国側との交渉には、西松部長も陰で相当に尽力した、といわれる。
「なるほど……」
西松は、そんなことはおくびにも出さず、感心したような表情をして見せた。
「じゃ、これでいくか」
みんなの様子を見回して、西松がいった。誰からも反対はあるまい、という自信が口調に現れていた。だが、
「それはどうですかねえ」
という声が出た。寺木石油第一課長だった。
「いま、原油備蓄タンクを撤去するのは、よくないんじゃないですか。備蓄施設は、ちっとも増えてないんですからね」
寺木の説明を待つまでもなく、みなそれはよく知っていた。日本の石油備蓄は平均消費量の六十五日分くらいしかない。西ヨーロッパ諸国の百日ないし百二十日分はもちろん、石油消費国会議で�最低義務�と決定された九十日分にも、はるかに及ばない状況なのだ。
「だけど、M鉱産は韓国の石油タンクを借りるので、そっちに備蓄できるわけで……」
山城石油第二課長は反論した。
「しかし、いざという時には、韓国だって石油輸出を禁止するでしょうからねえ……」
こんどは、古島資源輸入課長が口を出した。
実際に石油危機が起これば、各消費国は石油輸出を止める可能性は十分ある。現に一九七三年の石油危機の時、日本もそれをやり、沖縄の精油所から供給を受けていた台湾や香港の消費者を困らせた。国内になければ備蓄の意味は乏しいというわけだ。
沈黙が生じた。寺木だけでなく、古島も反対だとなると、この計画は挫折する可能性が大きい。役所では、地位の上下にかかわらず、関係者が二人以上反対することは、たいてい実現しないのだ。
「いや別に、私は絶対反対というわけじゃないんですよ」
寺木は笑顔を作った。
「他に備蓄施設が出来たあとで、これをやればいいと思うんです。つまり、あの海底油槽ですよ」
海底油槽というのは、海中に沈められた超大型油槽群で、すでにアラブ首長国連邦のドバイや地中海では実用化されている例がある。日本でも、陸上の石油基地用地が得難いため、石油備蓄会社が目下建設中である。
「あれは、三百万キロリットルの超大型タンク群九基の計画ですが、そのうち第一期分の三基は急げば九月いっぱいで完成できる。それからM鉱産の計画に着手すれば、一時的にも備蓄を減らすことはなくやれるわけです」
「寺木さん」
西松は少し改まった口調でいった。
「君はいつも備蓄、備蓄というが、業界が乗ってくるかね」
経営規模の拡大に直結する精製施設や高品位製品をつくる重油脱硫装置と異なり、巨額の資金を喰うばかりで企業にはなんのメリットもない石油備蓄に、石油業界はきわめて消極的なのだ。
「そりゃ政府資金の援助も、もっと強化しなけりゃならんでしょう。だけど、それだからなおのこと、ここで一歩でも後退するようなことをしてはならんのですよ」
寺木は、静かな声で、激しい内容のことをいった。
戦後三十年、日本の政治行政は、当面の身近な問題のみを重要視する「身の回り政治」に終始してきた。いま話題の公害問題や業界の意向を中心におく西松部長らの意見は、こうした戦後政治の継続を主張するものだ。これに対して、寺木鉄太郎は、長期的な国家の安定と国民生活の安全に重点を置く考え方に立っていた。寺木の主張は、戦後の「身の回り政治」への挑戦でもあった。
それだけに、議論は長々と続いた。それは、久し振りにデートの約束をしていた小宮を焦立たせた。だが、小宮には、会議の途中で席を立つほどの勇気も不真面目さもなかった。