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次の日の夜、寺木と小宮は、新大阪駅へ向かうタクシーの中にいた。
二人は、つい先刻まで、関西経営協会の事務所で、「石油輸入大幅減少時の影響とその対策に関する調査」の進め方を打ち合わせていた。
二人が、約束の午後二時に、中之島の西端にそびえる超高層ビルの二十八階にある関西経営協会の事務局を訪ねると、すでに大河原会長が調査スタッフを会議室に集めて待ち構えていた。
しかし、今田という調査部長は、小さな身体に皺深い青白い顔をのせた初老の男で、その容貌と同じく知識の方も貧弱だった。学歴だけは立派で無能な「エリート」のなれの果てだろう、と小宮は想像した。彼の部下たちも、もっともらしい議論はするが、具体的方法論も、新鮮なアイデアも乏しい連中で、会議はまとまりを欠き、空虚な抽象論の羅列となった。ただ、これを、末席にいた若い女性が巧みに取りまとめて、ようやく進行させていた。
会議が始まって三十分もたつと、小宮は心配になっていた。同じ不安を、大河原会長も感じたらしく、
「大学やシンクタンクの専門家を集めて、委員会を作らんといかんな」
と提案した。
今田調査部長は、すぐ賛成した。外部の有能な人材を集めて委員会を作るというのは、こうした団体の常套手段だ。機密が保持されるのなら、という条件付きで寺木も同意した。そしてすぐ、人選が始まった。全員が推挙した学者などには、その場で大河原会長が協力要請の電話をかけた。
小宮は、大河原の大物らしからぬ機敏さに驚いた。そして関西経営協会会長直々の電話は、学者たちにかなりの効果を持った。
わずか一時間ほどの間に、数名の有力な学者や研究者の参加が決定していった。産業構造論の専門家で京大助教授の雑賀正一、交通経済研究所の杉己喜夫主席研究員、社会心理学者の坂元九郎、都市工学の鈴木紀男関西大教授らである。さらに、欧米の政財界に顔の広い国際評論家青柳実三に、情報収集のため欧米へ飛んでもらうことも決まった。もちろん、役所の方でもこれに必要なデータは提供することになっていた。
調査委員会は非常に充実した陣容にはなったが、寺木が主張したスケジュールはひどいものだった。寺木は、遅くとも九月いっぱいには一応の報告が欲しい、といい張ったのである。
たった四ヵ月で、この広範囲にわたる調査を完成させることは、どんなに能力のある調査機関にも無理だろう、と小宮は思った。もちろん、今田調査部長らも異議を唱えたが、寺木は予算折衝や政府行政への反映のためには、それが不可欠だ、といって譲らなかった。
しかし、それ以上に驚いたのは、末席にいた若い女性が、なんとかやれるでしょう、とこのスケジュールを引き受けたことだった。そして今田調査部長が、この女性に、大丈夫ですか、キトさん、といっただけで、おとなしく追随した。
〈出過ぎたことをいう女だなあ〉
小宮は、車窓に流れる新淀川の長い鉄橋のアーチを眺めながら、その女性の顔を思い浮かべた。痩せ型の、下半分が小さく締まった白い顔だった。どこか、昨夜鴻森邸で見たエル・グレコの絵の中の女に似ていた。
タクシーが新大阪駅に着いたのは午後八時二十分頃だった。東京行最終ひかり号には、あと十分ほど間があった。
「やあ、小宮君じゃないか」
ホームを歩いていた二人の背後で大きな声がした。
振り返ると、がっしりした体躯にやさし過ぎる顔立ちの男が立っていた。新聞記者の本村英人だ。
「これは、課長さんもご一緒で……。となると、よほどの重要案件の発生ですなあ」
本村英人は、東大での小宮の同級生の一人だが、三年間ほど通産省担当記者をやったので、役所に知り合いは多い。いまは、経団連の記者クラブに移っているが、小宮とは時々、マージャン卓を囲むような交際が続いている。
「いやいいところで会った。近々石油部にも出かけようと思っていたんだ」
「ここで取材をする気かい」
小宮はわざと面倒臭そうな顔をして見せた。
「実は七月から中東視察に行くことになってね。その予備知識を仕込んでいるところなんだよ」
「そりゃいい」
小宮は素直に友人の幸運を喜んだ。彼はアメリカと東南アジアに出張したことはあるが、中東は知らない。
「いまも、彼からアラビア湾の話を聞いていたところだ」
本村のうしろに、日焼けした顔に濃い眉の、たくましい長身の青年がいた。
「緑川光です」
青年は、身体に似合わぬ小さな声で自己紹介した。アラビア通いのタンカー承天丸の一等航海士だという。
「君、何号車」
小宮は、本村に訊いた。
「十号車だ」
「へえ、グリーン車か」
役人も、課長補佐以上にはグリーン料金は出るが、出張旅費の中から課内の茶菓代などを寄付するのが慣例となっているので、実際にはグリーン車に乗るとかなり足が出る。
「僕らもグリーンにしよう」
寺木が、横から口を出した。本村の中東旅行に関心を持ったのだろう。
やがて入って来た列車は、満員の客を吐き出し、その半分くらいの人数を呑み込んだ。
本村は、六月下旬出発の五十日にわたる中東旅行の予定を陽気にしゃべった。
緑川光は無口だった。質問には最小限の言葉で答えた。彼の乗っている承天丸は、十五万トン級の中古タンカーだが、現在定期修理でドック入りしているので、休暇中だ、ということだった。
「ところで、本村さん」
寺木が改まった口調で切り出したのは、列車が名古屋駅を出た直後だった。
「君を見込んで頼みがある」
本村も真面目な表情になった。
「中東でちょっと調べて欲しいことがあるんだ。ご承知のように、世界の石油輸出の半分以上、日本向けの八割以上が中東だ。その中東からの石油輸入が本当に安心できるところかどうか現地でさぐって来て欲しい」
「これは驚いた。うちの社の連中のいうのと正反対だ」
本村はちょっととまどった顔でいった。
「中東の油は高硫黄原油が多い。世界的に公害問題がやかましくなってきているため、売りにくくなる。そのへんをむこうではどうみているか調べて来い、というのが社の命令でね。それに、いまは石油がだぶついているんでしょう」
寺木は首を横に振った。
「それは一時的な現象だ。中東の石油が止まった場合のショックは、以前と変わらんよ」
本村はちょっと考え込んだ。
「もちろん、これは記事にはなるまい」
寺木は、相手の迷いを見透したように追い打ちをかけた。
「それを新聞記者の君に頼むのは筋違いだろうが、これは大事なことだ。しかも急ぐ。役所は大っぴらに動けないんだ。俺の勘では、もう何らかの準備が裏で進んでいるような気がする。ある程度手懸りはある。ルートも用意できると思うよ。ひょっとしたら、これまで日本人が入ったことのないような情報源に触れられるかも知れんのだ」
本村はなお少し考えていた。
「やって見ましょう」
本村の顔には、好奇心と期待感の輝きがあった。浜松らしい駅の灯が車窓を飛び去って行くところだった。