7
小宮幸治は、ますます忙しくなった。彼は毎日、午後六時頃まで通産省のエネルギー庁の石油第一課で通常の仕事をやり、そのあと十一時過ぎまで鴻芳ビルに詰めた。
他の連中もよくやった。公益事業部の安永博や運輸省の若水清は、二日に一度は必ずやって来たし、他のメンバーも資料をかかえて週に二回は現れた。そして、毎週土曜日の夕方から開く連絡調整会議には、大体四、五人のメンバーが集まった。
この忙しさのために、小宮が須山寿佐美と会う機会はますます減った。だが小宮には、新しい楽しみが生まれていた。毎日一回、夜の九時半頃にかかってくる鬼登沙和子からのテレビ電話だった。テレビ電話の小さいブラウン管に映る沙和子の顔は、いつも無表情だったし、互いに仕事以外のことを話すことはめったになかったが、それがかえって、この不可解な女性に対する彼の関心を強めた。
「貴女の専門はなんですか」
ある日、小宮はブラウン管の沙和子に、そう訊ねた。彼女が、石油需要の季節変動の要素別分析を依頼してきた時だ。
「マルコフ過程の社会現象分野への演繹理論でイリノイ工科大学から、社会群におけるカタストロフィー理論で大阪市立大学から、学位をもらいました」
沙和子は、例の抑揚のない声で答えた。
高等数学には縁遠い法学部出の小宮には、話の続けようがなかった。
「ご家族は……」
「ありません。独り……」
ほんの二秒間ほど二人はブラウン管を通じて見つめ合ったが、急に沙和子の大きな目に狼狽の色が浮かび、テレビ電話が切れた。下半分のつまった沙和子の顔が飛び散るように縮んでブラウン管の上から消えた。
それが、小宮が彼女と個人的なことを話したほとんど唯一の例だった。
〈一体あの女、何歳なんだろう〉
小宮はそんなことも考えた。
六月に入ると、鴻芳東京ビルの会議室に、資料が山積みになった。作業は予想以上に進み、この調子なら九月末までに一応の結果を出すのも可能だ、と思えてきた。
寺木鉄太郎が、黒沢修二エネルギー庁長官を案内して鴻芳ビルにやって来たのは、そんな時期の土曜日の夕方だった。
寺木がここに来るのは、あの最初の打ち合わせ会議以来、六週間ぶりだ。
「南米石油の件で飛び回ってたんだけど、あれも目鼻がついたから、これからはいくらか手伝うよ」
そういって、寺木は差し入れのジョニ黒のビンを机の上に置いた。
寺木が、かなり前から南米石油を日本に導入しようとしているのを、小宮も聞いていた。
一九七三年の石油価格大幅引き上げと国有化政策で、産油国は膨大な利益を得た。オイルダラーはいまや世界の金融市場を席捲する勢いである。しかし大産油国の荒っぽい稼ぎの陰で、中小産油国は複雑な悩みに直面した。これらの諸国は食糧や開発資材の輸入のために、できるだけ多くの石油を売りたいが、石油が世界的に供給過剰気味になっているいま、予定量の石油を売るためには、販売網を握るメジャー(国際石油資本)に頼るしかない。中小産油国は、油田の国有化にもかかわらず、なお(いやむしろ一層強く)メジャーに依存する形になっているのだ。
当然、こうした現状を打ち破ろうとする動きもあった。昨春誕生した南米のロドリゲス政権もその一つだ。ロドリゲス大統領は、メジャーへの依存を断ち切るためには、自ら販売力を備えねばならないことを痛感し、主要消費国に政府直販原油(DD原油)の輸出交渉を行っている。世界最大の石油輸入国日本は、ロドリゲスの最大目標である。
石油価格は石油輸出国機構(OPEC)の協定で値引きできない。その代わり石油代金の相当部分を日本からの鉄鋼、機械などの輸入によって受け取ろう、とロドリゲス政権は提案してきた。日本の商社や鉄鋼・機械メーカーにとっては、よだれの出るような話である。
だが、問題もある。年間二千万キロリットル、日本の総需要の七%にも当たる原油を、誰が引き受け、どこが精製・販売するか、という点である。メジャー資本が半分以上を占める外資系石油会社はもちろん、これを引き受けるわけにはいかない。民族系企業もメジャーとの摩擦を恐れてこれを避けた。距離の遠い分だけ輸送コストが高くつくという不利もあった。
一社だけ、これにチャレンジしようという石油会社が現れた。「怪物」のあだ名をもつ猪原京之介の率いるI燃料だ。
しかしI燃料の計画にもまた別の問題があった。I燃料はこの南米原油導入の代わりに、日本の海外石油開発企業から購入している中東原油八百万キロリットルを断わる、といいだしたからだ。
日本の海外石油開発企業にとっては、国内市場だけが頼りだから、これは痛手だ。南米石油より日本人の手で掘った中東石油を、という声は、政財界に圧倒的に強い。通産省や大蔵省でも、長年の海外資源開発政策が根底から崩れる、という反対論が強かった。
こうして南米石油の件は、三月頃から完全にデッドロックに乗り上げてしまっていた。
「南米石油の件はどうなったんですか」
小宮は訊ねた。
「いや大したことじゃないよ」
寺木はウイスキーの水割りを飲み下した。
「例の海底油槽さ。あの第一期分九百万キロリットル容量が九月中に完成するからね、当面あそこに八百万キロリットル備蓄する。ことしの導入は半年分の一千万キロリットルだから、残り二百万キロリットルだけI燃料に引き受けてもらう。メジャーからの購入分を切ってね」
「それで来年は……」
と、安永博が質問した。
「海底油槽の第二期完成で、もう八百万キロリットル備蓄する。I燃料が七百万キロリットルメジャー分を切って引き取り、残り五百万キロリットルは民族系三社に分担してもらう。来年は五%くらい石油需要が伸びるから、民族系三社でそれくらいは引き受けても、従来の輸入先をカットする必要はないんだよ」
「再来年になるともう四、五%日本の石油需要が伸びるから、二千万キロリットル全部が消化できるというわけですね」
「まあ大体はね」
うまく考えたものだ、と小宮は感心した。
海底油槽が完成しても、それに備える原油をどうするか、というのも大きな問題だったのだ。それを寺木は、南米原油の導入問題と同時に解決したわけだ。これだと一方に輸出振興という名分と鉄鋼・機械業界の支援があるので、石油業界としても乗らないわけにはいかない。
「この案のミソはねえ」
黒沢長官が笑顔を見せて解説を加えた。
「南米石油の代金の相当部分が日本からの輸出品で支払われるようになってるから、備蓄原油の資金がローンにできることだよ」
「あ、なるほど」
思わず小宮は叫んだ。
南米側への輸出をメーカーや商社への分割払いにする。輸出には輸出入銀行の低利金融があるからこれはそうむずかしいことではない。そうすれば、ある程度備蓄原油資金の負担も軽減しうるのである。
「これが成功すると、日本の石油供給の安定性は随分上がりますね」
小宮はうれしくなっていった。
「そうだ」
黒沢長官も酔いに赤らんだ丸顔をほころばした。
「ことし中に約十日分の備蓄が増えるし、中東依存度が七%も下がって七四%になる」
「いやそれよりもいま、君らのやってくれている油減調査だよ」
寺木は、話の方向を変えた。
「万一の場合、政府が的確な対策を持っているかどうか、このソフトウエアの効果は、少しばかりの備蓄には代えられん大きな価値があるからね」
半ば励ますような、半ばおだてるようなこの言葉は、この場の雰囲気によくマッチしていた。一同は、満足気にグラスをあけた。
「俺はついてるよ」
黒沢長官が、ちょっとしんみりした口調でいった。
「いつも部下には恵まれてきたんだ。こんども、役人生活の最後を飾るいい仕事を残せそうだよ」
黒沢が通産省の事務次官になる可能性はほとんどない。エネルギー庁長官は彼の最終ポストである。それだけに、黒沢は「いい仕事」を残し自らの勇退を飾りたかった。それが三十余年奉職した国家と通産省への恩返しだ、と古風な役人気質の黒沢は考えているのだ。
それは、幸せな六月の夜だった。……