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日期:2019-03-18 23:19  点击:399
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 中東の七月は灼熱の季節である。本村英人は、アンマン、ダマスクス、バグダードと、旅を続けた。
 飛行機から見たシリア砂漠、その中を走る石油パイプラインの細い糸は、印象的であった。アンマンやダマスクスの乾き切ったほこりっぽさも、珍しかった。そしてどこの街にも軍服の多いのに驚いた。かつて世界の首都といわれたバグダードも、いまはほこりまみれの疲れ果てた表情を持っていた。ここでも、創建者アル・マンスールが�平和の都�と名付けたのが皮肉に思えるほどに軍人の姿が目についた。
 本村はここで一人の日本人の友を得た。久我京介という小肥りの四十男だ。彼はアラビア湾東部のアラブ首長国連邦で石油開発基地の建設に従事している建築技師だが、短い休暇を利用してメソポタミアの遺跡を残らず見物しようと、やって来ていたのだ。旅行の最後に、アラブ首長国連邦に立ち寄ろうと考えていた本村は、久我を知って喜んだ。
 久我は、バスラまでの自動車旅行を提案した。バグダードからバスラまで四百キロの旅は、メソポタミア平原の下半分を縦断することになる。
 未明にバグダードを発った二人は、日の出と同時に南九十キロのバビロンの遺跡に着いた。二千五百年の歳月と強烈な砂漠の陽と風で、さしも栄華を誇ったネブカドネザル大王の大都も、いまは見る影もなく崩れ落ち、一部が復元されているイシュタル門のほかは、一面の瓦礫の山となり果てていた。
 その後、車は、メソポタミアの平原を、眩しい光を浴びて突っ走った。道は、時にチグリスに、時にユーフラテスに臨んだが、夏の乾期のためか、この古く名高い大河も、痩せ細り、瀕死の蛇のような姿でうねっていた。その乾上がった川沿いに、何千年にもわたってこの蛇が脱ぎ捨てた皮の風化物のように、白い塩がたまっていた。
 夕方、久我は「バベルの塔」の廃墟に車を走らせた。バビロンの大都よりもさらに千年以上も昔のものだ。
 当時、この下メソポタミアでは、高い塔を建てるのが流行したらしく、その跡がいくつかある。久我が案内してくれたのは、そのなかでも最も有名なウル第二都市のものだった。だがそこにも、かの「バベルの塔」の面影はなく、ただ巨大な土饅頭が淋しく盛り上がっているだけだった。
 この高塔が建てられてから、あの平和の都バグダードが千一夜物語のロマンに彩られるまで、三千年余もの長い間世界で最も栄え進んだ地域であったこの中東が、それからわずか数百年の間に乾き切ったほこりっぽい貧しい土地に変わり果てたことを、本村は不思議に思った。
「燃料がなくなったからだ」
 本村の疑問に、久我は短く答えた。
 中東が気象の変化と牧羊のために木材資源を失い燃料不足に陥った十一世紀前後には、まだ石油を掘る技術も、使う知識も人類にはなかったのだ。
 今日、全世界の燃料の大きな部分を供給する中東が、自ら最も必要とした時期に、それを手にすることができなかったことを、歴史の皮肉と呼ぶのは残酷過ぎるだろう。だが万一、中東に戦争が起これば、その石油に全エネルギーの大半を依存する日本もまた、と本村は想像した。
 低く傾いた夕陽を受けて、長い黒い影を落とす「バベルの塔」の姿が、東京の高層ビルの未来を暗示するように、本村の目に映った。
 二人は真夜中にバスラに着いた。ここは元は海港だった。千年ほど前までは、アラビア湾がこの辺まで深く喰い込んでいたのだが、いまは、百キロ先まで陸地になっている。チグリス、ユーフラテスの運んだ泥土が海を埋めてしまったのだ。
 川が埋めた土地の下に大量の石油が眠っていた。二十世紀の人間はこの地上に複雑な国境線を引いた。アラビア湾奥の狭い海岸線を目指して、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビアの四ヵ国が寄り添うように顔を出しているのである。
 翌日、久我はアラブ首長国連邦に向かったが、本村は十日ほどここに留まることにした。
 本村はここで生まれてはじめて、油田を見た。イランのジフスルからクウェート、サウジアラビア領まで、ペルシャ湾奥にはいくつもの大油田が連なっている。ここは世界最大の石油生産地帯であるばかりでなく、遠くイラクのキルクークやモスルからパイプで運ばれるものをも加えて、全世界の石油輸出の四割近くが積み出されている地域でもある。
 本村は、この石油地帯の意外な狭さに驚いた。国籍の上では、四つの国に分かれていても、実際に石油施設が並ぶ地域は、半径二百キロの円内にほとんど収まる。乾燥した平野での二百キロは近い。そのなかに、いくつもの大油田と巨大な精油所と数ヵ所の石油積出港とがかたまっており、その間に割り込むように、イラク領ウルカスルーのソ連海軍基地があった。よく訓練された軍隊なら、それらすべてを一、二日の間にも破壊しつくせそうな、密集状況と無防備さに思えた。
 本村がクウェートへ発つ日、中東急進派四ヵ国とパレスチナ解放戦線が、軍事経済同盟の締結を発表した。このニュースに、バスラの市民は歓声をあげた。その日はまさしく、グスタフ・フォン・マイヤーの予言した日付けに当たっていた。
 
 本村はクウェートの油田と、日本系企業の開発したカフジの海底油田を見学したあと、最後の訪問国、アラブ首長国連邦へ飛んだ。
 中型双発ジェット機の窓の下に、白い陸地と緑青色の海、そしてその海の中に、草木のない平らな砂島がいくつも見えた。
 アラビア湾南岸は多島海だ。首長国連邦政府すら、自国領内にいくつの島があるのか、およその見当もつかない、といっている。つまり、これらの島は、数を調べるほどの価値も認められていなかったのである。
 島ばかりではない。陸地そのものも忘れられた地であった。アラビア湾南岸の、カタール半島からオマーン半島の間に並ぶ七つの土侯国が連邦を組んで、独立国として公認されたのは一九七一年のことだ。それまでこの地域は、「休戦オマーン土侯諸国」という奇妙な名で呼ばれていた。何という土侯国があるのか知る者もなく、ただこの名で、隣りのオマーン王国と区分けされていただけである。ここは、わずかのオアシス農民と原始的な沿岸漁民と、地面に貼りついた乏しい草をあさる憐れな羊を追う少数の遊牧民、合計三万人弱が、千年前とさして変わらぬ生活を繰り返していたところだったのだ。
 だが、十数年前、この地の一角に石油が発見されて、事情は一変した。たちまちのうちに、砂漠にアスファルトのハイウエーが通り、泥小屋の集落に大ビルディングが並び、百キロ四方に一人の医師もいなかったところに近代的な大病院が建った。
 飛行機は、アラブ首長国連邦の東岸寄りにある空港に降りた。七月末の昼下がり、砂漠のいちばん暑い季節のいちばん暑い時刻だった。気温はおそらく五十度を越えているだろう。雲一つない空から降る光が痛い。その光の中に、純白の屋根とガラス壁の空港ビルがあった。それは、ここに降りた十人足らずの乗客には、淋しさを感じさせるほどに広かった。
 空港のロビーで、先に着いていた久我京介が出迎えてくれた。
「よく来てくれました。この�地の果て�まで……」
「ここはいまでも地の果てですかね」
 ホテルに向かう車から見る石油開発基地のこの町には、真新しいビルが並び、それを上回るほどの建設中の鉄骨がそびえている。
「ここには歴史がないからね。そしておそらく未来も……」
 久我は、自嘲的な笑顔を見せた。石油開発以来、人口は著しく増えたが、それら移住者のほとんどすべてが、ここに永住する気を持ってはいないというのだ。
「あんたにぜひ会いたいという旧友が待ってますよ」
 新築のホテルに車が停まった時、久我がそういって、本村を驚かせた。
 ホテルのロビーに待っていたのは、承天丸の航海士、緑川光であった。長身を海員の制服に包んだ緑川は、この灼熱の港町には似合わしい男に見えた。
 アラビア海南岸は一般に海が浅く、大型タンカーの出入りする石油積出港はほとんど沖合まで伸びたパイプラインの先に設けられているが、オマーン半島の付根に当たるこの港だけは、割合い水深に恵まれているので、陸近くまでタンカーが入れる。
「なぜかこんどはひどく港が混んでいて、石油積み込みまで丸一日待たされてるんです。それで上陸したんですよ」
 緑川は、奇遇を喜んでいる風だった。
 三人は、ホテルの最上階にあるレストランに入った。窓際の席から、西南の砂漠と西北の海がよく見えた。海には、五、六隻ものタンカーが肩を寄せ合うように浮かんでいた。
「それにしても奇妙ですな」
 久我が太い首を傾けた。
「石油積み出しは盛んなのに、欧米企業の油田開発の方は全く尻すぼみですからね」
 緑川もうなずいた。
「世界的に油は余っているというのに、ここへ来て積み出しが急増するなんて」
 本村はそれが何かの前兆ではあるまいか、と考えてみた。
〈情報網の完備したメジャーは何かをつかんでいるのではあるまいか〉
 広いガラス窓から見えるホテルのまわりには、海水を蒸留した高価な水で養われた芝生と、ドラム罐に植えられた樹木が申し訳け程度に並んでいる。それはこのホテルが最高級であることを示す看板でもあった。
「しかし変わった奴もいるよ。こんな砂漠に用もないのにやって来る日本人の若いのが多いんだからなあ」
 久我は笑った。
 本村は思わず、声を上げそうになった。ゲリラではないか、と思ったからだ。
「どうしてまた急に……」
 と、緑川が訊ねた。
「日本人だけじゃない。欧州や南米からも来ている。なんでもヒッピーだか、イッピーだかの聖地がヒマラヤからアラビア砂漠に変わったんだそうだ。アル・アインのオアシスの近くで、キャンプしたりして、暇な連中だよ」
 久我は何気なくおかしそうに説明した。
 もしマイヤーのいったザイジールなる人物が本当に有能な指導者であり、心底、中東に大動乱を起こすことをねらっているなら、組織の一部をこの地方にも派遣するだろう。ここでは数年来|飽《う》むことなく続いているオマーン・ゲリラとの連携も可能だから、彼らに対する補給も困難ではないかも知れないのである。
 西に傾いた太陽が、部屋の色調を変えはじめた。それは日本で見るような弱々しい落日でも、ベイルートで見た人の心を魅了する幻想的な夕陽でもなく、すべてのものを無に帰せしめる力を感じさせる苛酷なまでに美しい真赤な巨球であった。

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