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日期:2019-03-18 23:19  点击:294
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「むこうは大変ですよ、部長」
 本村英人は開口一番そういった。
 彼は羽田からタクシーを飛ばし、いまA紙本社に着いたばかりだ。
 秋森経済部長はずり落ちかけた眼鏡を押し上げながら、本村の勢いに押されたように椅子の上で身をそらせた。
 本村は中東が戦争の危機を胎《はら》んでいること、それも従来のようなエジプト、シリアとイスラエルとの局地戦ではなく、中東全域に拡大する可能性の強いことを話したが、焦りが先立って、我ながらまとまりのない話し方になってしまった。
「早速記事にしたいんですよ、部長。できれば連載物でお願いしたいんですが……」
「まあ、考えとくよ。君も疲れたろうから二、三日ゆっくりしたまえ」
 秋森は、本村の意気込みを柔らかくそらしてから、ニヤリとしていい足した。
「それにしても、モトさんが石油好きになってくれたのはありがたいよ。実はこんど、君に石油記者クラブのキャップをやってもらおうと思うんだ」
 翌朝、本村はいつもより早く家を出た。旅の疲れと時差ぼけで身体が重かった。それに、八月上旬の東京はひどく蒸し暑く、乾き切った中東とは違った不快感があった。だが、石油担当記者になったことは不快ではなかった。石油危機の切迫を記事にするチャンスが多いと思えたからだ。
 石油記者クラブは、石油連盟の中に一室を借りていた。各新聞社のデスクが一つずつあるだけの小さなクラブだ。部屋の中央に共同使用の会議机があり、その上には碁盤やトランプが投げ出されている。
「おお、モトさん、もう来てくれたかい」
 部屋の隅で将棋を指していた大男が、本村の顔をみると、叫んだ。前任者の北畑記者だった。
 早指し将棋に負けた北畑は、本村を自分のデスクへ連れて行って、スクラップ・ブックを開いた。そこに貼られた切り抜きの大見出しを見た瞬間、本村は息のつまるほど驚いた。
「海底油槽反対の声広まる」「石油備蓄政策再検討こそ必要」という文字が、黒々と並んでいた。「いま、わが社は大キャンペーン中なんだ。この火を消さんように頑張ってくれよな」
 北畑の話とスクラップ・ブックのおびただしい切り抜きから、本村は、日本の世論、とりわけ彼自身の所属するA紙の論調が、自分の考えていたのとは全く逆の方向に進んでいることを知った。
 本村が中東旅行に発って間もない六月の末、兵庫県の大火力発電所で起こった排煙脱硫装置の故障が事の始まりだった。
 当初、電力会社はこの故障を軽く見ていたが、修理部品の入手難などで、排煙脱硫装置の修理は手間取った。さらに運の悪いことに、梅雨あけ前の曇天無風の日が続いた。故障発生後三日目には、発電所周辺の亜硫酸ガス濃度の急増から、異常事態の発生が知れわたってしまった。地元市長は、電力会社の�公害防止協定違反�を攻撃し、住民代表たちは�即時発電停止�を訴えた。発電所所長が、亜硫酸ガス濃度は高まったとはいっても、数年前の工業地帯に比べるとまだまだ低い、などといったことが、住民の怒りに油を注ぐ結果にもなった。そして故障発生後五日目、熱心な新聞記者と医師の協力によって公害性咽頭疾患者が数名発見された。
 騒ぎをことさら大きくしたのは、ただちに現地視察して、問題を国会の場に持ち出した吉崎公造代議士だった。彼は、電力会社とそれを監督する通産省エネルギー庁の姿勢を攻撃したばかりではなく、特別の爆弾質問をも用意していた。それは、こともあろうに通産省が公害防止を妨げている、というものだった。
 吉崎代議士は、この春、M鉱産が、神奈川精油所内の石油備蓄タンクを撤去して、重油脱硫装置を設けようとした計画を、重油脱硫装置メーカーからの資料で明らかにしたうえで、
「この計画を、通産省エネルギー庁が認可しなかった。今回の公害発生の原因は、低硫黄重油の不足にあったわけだから、その低硫黄重油増産を妨げていた通産省こそが、真の加害者ではないか」
 と決めつけたのである。
 これには通産省側も答弁に窮し、M鉱産の計画を直ちに進める、というほかはなかった。
 この結果、M鉱産の重油脱硫装置建設計画は認可され、わずか一ヵ月後のいま、すでにその準備工事、つまり同装置建設用地を空けるための石油備蓄タンク撤去作業に入っている、という。
 ここで終わっていれば、たかだか百八十万キロリットル容量の石油備蓄タンクが減っただけで済むことだったが、これを契機に、マスコミが、石油関連施設の安全性に関する�総点検キャンペーン�を競ったことが、意外な方向に飛火したのである。
「ちょうど三週間前だよ、こいつが来たのは」
 北畑は、スクラップ・ブックに太く赤線で囲った小さな記事を示した。それは読者の投書だった。
 「海底油槽は危険──石油備蓄政策は誤り」と、投書欄には珍しい二本見出しをつけたその文章は、およそ次のようなものだった。
[#1字下げ]「石油関係の公害事故が相つぐなかで、とくに心配なのは、通産省と石油共同備蓄会社が建設中の海底油槽である。周知のごとく、海洋および海底についての知識はまだ著しく乏しい。とくに台風時に生じる波浪や津波、地震による海底の震動は全く知られていない。このような状況では、海底油槽が安全と確言できるはずはない。しかもこの海底油槽が破損した場合、流出する原油による汚染の被害は、一九七四年末に起こった水島の重油流出の何億倍となり、全海洋生物を消滅させるばかりか、海洋の死滅から地上の生物までも決定的な打撃を受けるであろう。かように危険な海底油槽の使用を、絶対に許してはならない……」
 投書者の署名は、伊藤今日次(七二歳)海洋学者、となっている。
「これは、わが社にとっては、まさに天佑だったよ」
 北畑は誇らし気にいった。
「これをもとに取材して歩いたら、公害反対運動で有名な東大の梅野、大阪市大の水本なんて連中が協力してくれたし、遂に土木工学の泰斗、広原隆美をくどき落として一つ書かせたんだ。広原は去年、役所とトラブルがあって、都市工学審議会をはずされたから書くと目をつけたのがよかったんだ」
 北畑はスクラップ・ブックを繰った。工学博士広原隆美の署名入りで「海底油槽の安全性への疑問」と題する大きな記事があった。文章は、海底油槽の安全性への疑問を、設計・施工者に質問するという形で、学者らしい抑えた表現のものだったが、それを紹介する柱書きには、土木工学の権威も危惧を表明している、という趣旨のことが書かれていた。これに対する、設計に関係した学者や技術者の見解・回答も、談話の形で付けられていたが、それは�関係業者の話�として扱われていた。
「キャンペーンが功を奏して、学生や一部の文化団体も立ち上がったね。今週はじめには地元にも海底油槽反対の会が出来たんだ。地元での反対集会には、吉崎議員も行くっていうんだからね。もうこっちのもんだよ」
「海底油槽って、本当に危険なのかい」
 本村はやっとそれだけ質問した。
「そんな専門的なこと、おれたちにわかるはずないじゃないか」
 北畑は、あっさりそういった。
「それより大事なのは、このキャンペーンはうちが、ここまで持ってきたんだから、他社に抜かれちゃいかんということだ。頑張ってくれよ、モトさん」
 北畑は、本村の背をたたいた。
 石油タンク増強が各地で地元の反対にあって立ち往生している現在、四国沖に造られている海底油槽こそが、日本にとってほとんど唯一の石油備蓄増強の頼りであることを、本村は十分に理解していた。
 彼は迷った。
 日本を救うためにぜひとも必要と信じる石油備蓄増強の訴えを捨てる気にはなれなかったが、そうかといってここまで進んでいる自社のキャンペーンを捨てることもできないだろう。新聞記者も組織の一員である。
 翌日、本村は寺木や小宮に会いに通産省へ行った。寺木には、グスタフ・フォン・マイヤーの話を報告する必要もあった。
 通産省旧館にあるエネルギー庁石油第一課の部屋には、課長の寺木鉄太郎も課長補佐の小宮幸治もいなかった。
「昨日から四国へ出張中ですよ」
 寺木の隣りの席にいた技術課長補佐の沼川は人の好さそうな笑顔でいった。
「四国というと、やはり海底油槽の件ですかね」
「そうですよ、お宅のキャンペーンで弱ってますよ。地元の有力者や共同備蓄会社だけでは手に負えなくなったと判断して、二人が地元説得に行ったんですが、どうですかね」
 夕方、本村が本社に戻った時、四国の現地記者から、海底油槽交渉決裂を伝える記事が送られてきていた。
[#ここから1字下げ]
「午前十一時、通産省、石油共同備蓄会社幹部らが、地元説得のため現地を訪れたが、待ち構えていた『海底油槽反対の会』の地元住民と、これを支援する学生・文化団体の三千人に阻止され、現場にすら到着できなかった。町当局が用意した説明会も、反対派のピケで中止となった。
 この後、反対派の人びとは建設現場近くに集合し、�海底油槽使用反対��海と海洋生物保護�を決議、会社側が使用テストを強行する場合には、漁船ピケによって実力で阻止することを申し合わせた。
 集会に出席した吉崎公造衆議院議員は、『一部大企業と癒着した政府当局の横暴から断固海を守るために身体を張って戦うとともに、政府の石油備蓄政策の誤りを国会の場でもきびしく追及していく』と語り、盛んな拍手を浴びた……」

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