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日本は極東に位置し、世界の主要先進国の中で、最も早く夜が明け、最も早く日が暮れる。
このことは、しばしば、国際問題においては微妙な影響を日本に与える。たとえば、通貨不安の場合がそうだ。通貨不安は常に、ヨーロッパの為替市場における激しい投機から発生する。ところが日本の外国為替市場は、ヨーロッパの市場が開く前に終了する。日本とヨーロッパの時差は八〜九時間あるからだ。
このお陰で、これまで日本政府は、その日のヨーロッパ金融市場の動向を見極めてから、翌日の日本市場の対策を決めることができた。日本には、丸一晩検討考慮の余裕が与えられているのだ。
だがこれは、いつもいい方にばかり作用するものではない。
今回の中東戦争──後の人はそれを「中東大戦」と呼ぶようになった──の報せが、最初に日本に入ったのは、十一月二十日午前四時十八分だった。これは中東現地時間では十一月十九日、午後十時十八分に当たる。実際に戦闘が始まったのは、おそらくこれより四、五十分前の午後九時三十分前後であろう。
この開戦の主導権を取った者が、通常の奇襲攻撃の開始時刻である払暁を捨てて、あえてこの時間を選んだのは、おそらく純戦術的理由であったろう。それは、奇襲とともに緒戦において最も長い夜間戦闘を強要する時刻なのだ。夜間戦闘では、空軍力の地上援護能力が大きく限定される半面、各兵員の技量や、とくに指揮命令系統組織の優劣が大きくものをいう。
日本が第一報を得た時、ヨーロッパでは十一月十九日の午後八時十八分(スイス、西ドイツなど)ないし七時十八分(イギリス)であった。アメリカのニューヨーク、ワシントンなど東部標準時間では同日の午後二時十八分に当たる。欧米諸国も日本とほぼ同時に第一報を得たことだろう。ただし、これは外交ルートの最大至急電であって民間通信はこれより、四、五十分遅れる。そしてこれが、ラジオ、テレビのニュースとなって一般に流れるまでにはさらに、十五分内外かかる。事実、ニューヨークで、中東戦争勃発の放送が最初に流れたのは、現地時間三時五分頃だったという。
しかもこの第一報は、単に「武力衝突」を伝えるだけのもので、それが大規模な「戦争」とわかるまでには、さらに三十分ほどかかった。この意味では、アメリカ国務省や大統領府が、中東戦争を外交情報としてつかんだのと、一般にニュースとして流されたのとの間に、一時間あまりの差があったわけだ。
いつもはほとんど問題にならないこの一時間余りの差が、今回は、非常に重要であった。この間に、東部標準時の午後三時が含まれていたからだ。つまり、この間に、アメリカで圧倒的な比重を持つニューヨークの外国為替および証券市場の立会が、終了時刻を迎えたのである。
したがって、「中東戦争再発」という第一級の大ニュースが、金融界、経済界に流れた時、世界の為替・証券市場はすべて閉じていたわけだ。そして次に、最初に開かれる運命にあるのは日本の取引所だったのである。
このため日本政府は、外国の動きを見ることなく、自ら態度を決めねばならなかった。政府は、国民に動揺を与えないことを、最優先目標としていたため、為替市場も証券取引所も平常通り開かせた。
そしてこの作戦は、朝方のドル買いや株の売りが比較的早く収まりだしたことによって、成功したかに思えた。昼食時間には、政府首脳も証券界や金融界の関係者も、明るい表情を取り戻していた。だが、午後二時頃から�異変�が起こった。
その契機となったのは、急進派のアリー首相とムガーディー革命会議議長とが、対イスラエル参戦の共同声明を発表したことであった。両国はアラブ急進派中でも最も先鋭な国であり、急進派四ヵ国同盟の上からも参戦は予想されてはいたが、やはりこれによって、今回の中東戦争が、単なる�小ぜり合い�ではなく、本格的な戦争であることが決定的になった意味は大きかった。アリー・ムガーディー両政府は、参戦した最初の産油国でもあった。
東京為替市場に猛烈なドル買いが起こった。もちろん、午前中と同様、日銀は無制限にドルを売り向かい、円を買い支えた。
株式市場には、前場に数倍する売りが押し寄せた。
二時十五分頃、シリア領内で石油パイプラインがアラブ・ゲリラの手で爆破されたというニュースが入った。同三十分頃には、アラブ産油国が戦費調達のために大量の日本の持ち株を売りに出す、といううわさが、北浜方面から伝えられ、兜町をも恐怖状態に陥れた。
立会終了前の十分間、東京でも大阪でも、取引はほとんど成立しなかった。市場はすべて売り気配一色となったからだ。
外国為替市場の方は、結局この日一日で、日銀は三十八億四千万ドルのドルを売り、円を買い入れた。日本の全外貨準備の約一九%が、たった一日で流出したのである。
日銀のような買い支え機関を持たない証券市場はみじめだった。東証のダウ平均株価は二百二十一円の大暴落となった。
政府首脳は、緊急連絡をかわし、対策協議を重ねた。関係大臣が再度、記者発表を行った。
長岡外務大臣は、アリー・ムガーディー両政権の参戦は当初から予想されたところであり、このことによって中東戦争が実質的に拡大したとは思えない。石油戦略はないだろう、と強調した。
大蔵大臣は、ドル買いは投機的なものであり、国際通貨体制に根本的な不安はない、といい、大量のドル買いには、為替法違反の疑いもあるのできびしく調査する、と警告した。
だがその直後、ヨーロッパ諸国が当分の間、外国為替市場を閉鎖することを決定した、というニュースが入った。それは、単に為替投機防止のためのものではなく、膨大な短期資金を持つアラブ産油国に対する警戒措置でもあった。
現在のアラブ産油国は、一九七三年の第四次中東戦争当時のアラブではない。彼らは一千億ドル以上もの外貨を持ち、少なくともそのうち六百億ドルがユーロダラーの形で欧米金融市場を流動している。それだけでも日本の外貨準備の三倍、EC加盟九ヵ国の外貨保有高の一・五倍に近い。これが、いやこの半分でもが、引き上げられることになれば、ヨーロッパの金融市場は壊滅する。日本はもちろん、アメリカといえども大打撃はまぬがれない。
欧州諸国としては、この短期資金の流動防止について、アラブ産油国と何らかの合意をとりつけるまでは、うかつに為替市場を開くわけにはいかない。欧州主要国はまず、「十ヵ国蔵相会議」の開催を要請した。アラブ産油国との協議の前に、西側先進諸国の結束を固めようというわけだ。
大蔵省の赤木財務官が、大蔵省と日本銀行の担当者四人を伴いロンドンに向かって夜の羽田空港を飛び立ったのは、この長い一日も終わりに近い午後十時のことだった。