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船乗りは、停泊中に襲われることを本能的に恐れる。何事につけ人は異常危機に直面すれば、自らの最も自信ある手段に頼ろうとするものだ。船乗りもまた、行動の自由な広い海に出て、自らの操船技術に頼ろうとする。緑川がようやくボートを捜しあてて本船に辿り着いた時、承天丸もすでにエンジンをかけていた。
「このまま朝を待った方がよいでしょう」
緑川は沖合退避に反対した。
暗夜に十四万トンのタンカーが自力航行するには、この泊地は狭過ぎるし、船も多過ぎる。左手の原油基地では、三つの石油タンクが赤黒い炎を上げて燃えさかっていたが、ロケット攻撃そのものは、もう二時間も前に終わっている。攻撃が再開されないという保証はないが、おそらく少数のゲリラか反乱軍の仕業だろうから、そう多くの兵器があるとも思えない。
「ようし、このまま待機する」
船長は、しばらく考えてからそう決断した。
向かい側にいた巨大なリベリア船が動き出し、承天丸の方に近づいて来た。攻撃目標にされるのを恐れて完全消灯した巨船は、黒い影のように音もなく海面を滑り、微速前進で承天丸の舷側すれすれを通過した。原油を積み込む直前なのか、バラスト水もほとんど積んでいないらしいその巨船は、承天丸のデッキの高さぐらいまで、吃水下の赤い腹を見せ、三分の二ほど空中に露出したスクリューで、水面をたたいていた。その姿は、巨大ではあったが、瀕死の大魚のように力なくあえぐ感じであった。陸上から押し寄せる黒煙がその弱々しい巨影を、包み込んだ。
〈危いことだ〉
と、緑川は思った。
おそらくは、はじめてこの港に入ったであろう巨船が、タグボートもなしに、自力で動き回るのは危険きわまりない芸当だ。そしてこの危惧はすぐ現実のものとなった。三十分と経たないうちに、リベリアのタンカーは、もう一隻の、方向転換のために背進して来たタンカーの船尾に、首を突き当てた。両船とも積荷がなく、船体が浮き上がっていたので、水面を滑り過ぎたのであろう。
鈍い衝突音が響き、金属が引き裂かれる音が悲鳴のように夜の海に走った。
翌朝、承天丸が出航する時、石油タンク群はなお激しく燃えていた。夜明け前になって、さらに二つの石油タンクが類焼した。猛火の中で、徐々に内部の原油が加熱され、揮発分が沸騰して引火したのだ。
消火作業などできる状態ではない。炎上タンクから五百メートル離れたところでも、三百度近い熱気で、近づくことも不可能だった。消防車や消火船は、タンクヤードの周辺部に散水して、わずかに周辺タンクの冷却に努めるのが精一杯だった。おそらく、この火災は、ここに貯えられている二百万キロリットル余りの原油が燃え尽きるまで、少なくとも一週間は続くだろう。その跡には、焼けただれた鋼板とパイプの廃墟だけが残ることになろう。港は、それが復旧されるまで、六ヵ月以上も使いものになるまい。それは、この港に頼っている年間六千万キロリットルの原油を全世界の人類が失うことを意味する。積出施設の壊滅は、付近一体の油田を操業不能に陥れるからだ。
緑川は、微速前進で進む承天丸のブリッジから、朝の海を眺めながら、暗い気持であった。
〈一体、これから俺たちはどこへ行けばよいのだ〉
アラビア湾一帯の石油積出港の半分以上が機能を停止してしまったら、石油タンカーの働ける航路は半減する。
昨夜まで積荷を競っていた多くの巨船が、次々と港を去りつつあった。船は、互いに長い汽笛で合図し合った。それは働き場所を失った憐れな巨体のうめきのように長く海面に響いた。
泊地を出て、承天丸は大きく迂回する航路をとった。この辺り、アラビア湾東部南岸は概して海が浅く、砂洲や岩礁も多いので、まず湾の中央部まで北東に進むのが正常な航路なのだ。この間承天丸の船上から、西方に黒煙が上るのが遠望された。昨夜の攻撃者は、同時にもう一ヵ所、石油基地か油田を襲ったのであろう。明らかに組織的な、周到に用意された攻撃だったのである。
承天丸がアラビア湾中央部の、安全な海域に達したのは、午後二時頃であった。ようやく昼食が用意された。人びとははじめて空腹と疲労を覚え、煤けた顔を見合わせて笑った。
「これからホルムス海峡まで、北東へ一直線だ。それまで君頼むよ」
船長は緑川にいい、ブリッジを降りた。
緑川は眠気と疲労と闘いながら、ブリッジに坐っていた。温度は上がり、青い空と碧い海は、昨夜の騒ぎが夢かと思えるほどに静かで美しかった。
夕方にはパナマの国旗を掲げた真新しい超大型タンカーが現れ、承天丸を二ノットほどの差で追い越して行った。
パナマ船は、昨日の朝、原油とガソリンおよび重油を積んでバーレン島を出港したものだった。すれ違う時、承天丸から昨夜の事件を知らせてやった。パナマ船は�本船出港時マデ、ばーれん島オヨビかたーる半島ニ異常ナシ�と、発光信号を送って来た。しかし昨日の朝、異常がなかったといっても、いまもそうだとは限らない。襲撃は昨夜から今朝の間にあったのだ。
パナマ船が視界から消えたあと、承天丸は何隻かの船とすれ違った。いずれも承天丸とは逆に、アラビア湾の内部へ、これから油を積みに行くのだった。緑川はそのつど、昨夜アラブ首長国連邦で少なくとも二ヵ所、大火災が発生したことを知らせた。
アラビア湾に夜の帷が降りたあと、一団の軍艦が現れ、二十五ノットほどの高速で、承天丸を追い抜いた。前部の砲身がわずかに仰角を持たせ、後部甲板のランチャーにミサイルを装填しているのが、星明かりにはっきりわかった。
船長が戻って来たのはその直後だ。右舷の後方に、淡いオマーン半島の影が、低く長く横たわっているのが、かすかに遠望された。
「真夜中前に、バンダルアバスの沖を通るな」
船の位置を確かめてから、船長はいった。承天丸はホルムス海峡の最狭部に入りかけていた。
緑川は、熱いシャワーで、昨夜来の汗と汚れを落としてベッドにもぐり込んだ。