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どれくらい経ったか、緑川はふと目を覚ました。船内が異常な騒がしさに包まれている。エンジンの音は低速に変わっている。
緑川は腕時計を見た。十一時四十分だった。予定通りならばいま、承天丸は、オマーン半島とバンダルアバスの入江との間の屈曲部を通過しているはずだ。
〈おかしいな……〉
船体がゆっくり左に回っているような気がした。この水道を何度も通った経験では、ここで取舵になることはないはずだ。その時、大きな叫び声を聞いた。そして、船室の丸窓ガラスが、薄い赤味を映しているのに気づいた。
彼の長身はほとんど自動的にベッドからすり抜けていた。二段跳びにラッタルを駆け上がり、甲板に出た。左舷前方に、大きな炎があった。
緑川はブリッジに走った。そこからはすべてがよく見えた。
承天丸は、ホルムス海峡の屈曲点の少し手前にいた。左前方にケシム島の平たい姿がかすかに水平線上に認められ、左手にはオマーン半島の最先端部が黒く低く伸びていた。空は澄み、星は大きく煌めいていたが、月はまだ出ていなかった。そして、正面やや左寄り、約二カイリ先で、大きな船が燃えていた。赤黒い炎の広がりの上に、白いまばゆい球状の光が立ち、左から右へ黒い煙が風に流されていた。
〈あのパナマ船だ〉
今日の午後、承天丸を追い抜いた最新型の超大型タンカーに違いなかった。その周囲に、二、三隻の船影があった。炎に照らされたそれは、まぎれもなく緑川が眠りにつく前に見た艦隊の一部であった。
「半島側から攻撃されたんだ」
船長は苦々し気につぶやいた。救助活動に当たっている軍艦との交信で、事情を知ったのである。
ホルムス海峡は、鋭く屈曲した水路である。幅はいま、承天丸のいる最狭部でも五十キロほどあるが、イラン寄りの北側は浅瀬や岩礁が多く、大型船が通過できるのはオマーン半島寄りの幅四キロほどに過ぎない。
アラビア湾沿岸に大量の石油が産出するようになってから、この海峡の戦略的経済的重要性は著しく高まり、いまやジブラルタル海峡、パナマ運河と並ぶ「三大戦略水路」となっている。全世界の石油輸出の大半がこの唯一の出口に頼っており、ここ以外には全く迂回水路がないからだ。
この水路は、昔から不安定なところだった。北側のイラン領はともかく、南側のオマーン半島は古くから海賊海岸として知られている。そこに巣喰った海賊たちは、前に斜いた特徴的な一本柱の帆船で、「インドの富」を運ぶイギリス商船隊を恐怖に陥れた時代もある。現在、この海賊海岸は、アラブ首長国連邦となっているが、半島の先端部だけはオマーン王国の飛び地なのだ。南部のドファール地方でのゲリラ戦に悩むオマーンにとっては、治安・行政の手の届きかねる場所だ。そのうえ、ここには、かつて海賊たちが利用した岩山や小島、サンゴ礁がいくらもある。昨夜、石油基地を襲ったような、組織された攻撃者が侵入するのは、さほど困難ではなかったろう。ロケット弾があれば、この海峡の大型船の通過可能な全水路を、十分射程内に収めることができる。大型船の通れる深い海路は、その北端ですら、半島の陸地から二十キロとは離れていないのである。
「まずい位置にいるなあ」
船長は何度か、そうつぶやいている。
炎上する不運な巨船は、航路の左端にあり、三十度ほどの角度で船首を右に向け、強い潮流に流されていた。明らかに反対側の、西行航路に入っているのは、オマーン半島側からの攻撃から逃れようと左に寄ったためだろう。この船が承天丸を追い抜いた時間と速度から計算して、襲われたのは一時間半ほど前だろう、と緑川は考えた。艦隊の随伴船と誤認されたのかも知れない。
〈もう少し早く来ていれば、この承天丸がやられたかも知れない〉
緑川はぞっとした。
「どうする、右か左か」
船長は、前方を睨んだまま、いった。
むずかしいところだ。パナマ船の位置がずっと左に寄っている以上、右側を通るのが当然だが、炎上する船体が右に船首を向けて流れているのが気になるし、オマーン半島に近づくため、同じ攻撃を受けやすくもなる。
「右です」
緑川はいった。
「あの燃え方では、積荷のガソリンが爆発する危険があります。十分距離のとれる右しかないでしょう」
緑川はもう攻撃はあるまい、とみた。すでに戦果をあげた攻撃者は、艦隊が来ている以上、再度の攻撃をかけるとは思えない。
「それに……」
「それに……」
緑川の言葉を把えて船長が聞き返した。
「それに本船はついています」
緑川のこの言葉に、船長は満足気に大きくうなずいた。
承天丸はエンジンの音をあげ、右寄りいっぱいのコースで、炎上する巨船の横を通り抜けた。炎が後方に流れ、臭気を含んだ煙がブリッジに流れ込んだ。だがそれもほんの一、二分の間だった。ブリッジには、ほっとしたため息が広がった。次の瞬間、パナマ船の船尾に、大きな爆発が起こった。ガソリンを積んだタンクが発火したのだ。
パナマ船から遠ざかった時、船長は誰にともなくいった。
「本船がホルムス海峡を通過する最後のタンカーになるかも知れん」
船長の予言は、不幸にも的中した。翌日、イランとオマーンは、アラビア湾唯一の出入口であるホルムス海峡を「危険水域」として封鎖する、と宣言し、アメリカ、ソ連、イギリスなどもこれに同意したからである。