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「ホルムス海峡封鎖」──このニュースが日本に伝わったのは、十二月十三日午後九時頃だった。
霞が関の官庁街は、来年度予算編成作業で、ごった返していた。官庁のビルは、すべての窓に明かりがつき、資料包をかかえた役人たちが、通りを右往左往していた。そんななかを、このニュースは電撃のような衝撃を伴って走った。
[#1字下げ]「ホルムス海峡の封鎖は、不測の事態を防止するとともに、外部からの武器その他の流入を止め、中東の戦乱と混迷を早期に終結させるための措置である」
そうした主旨の声明が沿岸国とこれを支持する大国から出された。
これは合理的な説明に見えたが、半面、この際、中東石油の禁輸によって、世界的な国際収支の不均衡を一挙に解消しよう、という大国のパワー・ポリティックスの意図もうかがえた。先進国側、とくにアメリカが、ソ連などとの間になんらかの了解を取りつけ、アラブ急進派の主張する「石油戦略」に先手を打ったわけだ。これによって、アラブ急進派の「切札」を奪い取ったばかりでなく、穏健派産油国に対する、急進的なアラブ民族主義者の反感と不満を解消することをもねらったのだ。確かにこれは、直接派兵に似た効果を、はるかに体裁よく、はるかに安上がりに実現する方法に違いない。だがそれによって起こる影響は日本にとってあまりにも重大である。
石油行政の元締めである通産省エネルギー庁は、茫然自失した。
〈ついに来たか〉
石油第一課課長補佐小宮幸治も絶望感に震えた。
イラク、クウェート、サウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦、それにイランなど中東アジア地区の石油は、一滴も運び出せない。もう一つの石油搬出ルート、シリア砂漠を越えて地中海東側に達するパイプラインは、開戦早々に、過激派ゲリラによる爆破でズタズタになってしまっているのだ。
中東アジア地区は、世界石油生産の約三分の一、全世界石油輸出の五五%を占めているのだから、その全面ストップが与える世界的な影響はきわめて大きい。なかでも、日本は最悪だ。全石油供給のうち八一%を中東アジア地域に依存しており、石油供給源としては、インドネシアなどの二割弱の分しか残っていない。南米やアフリカからの石油買い付けを拡大することも、いくらかはできようが、こういった事態では、飛躍的急増は望めない。世界中のどの国も必死にそれを行うに決まっているからだ。
「石油輸入が平常の三割になれば、二百日間で三百万人の生命と財産の七割が失われるでしょう」
鬼登沙和子の声を、小宮は思い出していた。
長官室に、全幹部が集まった。誰もが苦悩にゆがんだ表情で黙り込んでいた。
「とにかく、三〇%節減を早急に実施しましょう」
長い沈黙を破って、寺木石油第一課長が口を開いた。
だが、それに応じる声はなかった。一〇%節減ですら各方面から文句をつけられ、しかも買い溜め買い急ぎを誘発して、石油製品の出荷はさほど減少していない有様だ。そこへ三〇%節減を打ち出せばどんなことになるか。
「まだ早いんじゃないかなあ」
と、西松石油部長が、独り言のようにいった。
「国際石油資本《メジヤーズ》が日本への供給をどの程度減らすか、わかってないんだからねえ」
日本の石油輸入の半分は、メジャーから買っている。メジャーは世界中に石油供給源を持っており、それを従来の供給地域にこだわらず、全消費国に公平に配分するだろう。前回の石油危機の時も、アラブ産油国から禁輸のねらい撃ちを喰ったオランダはそうして救われた。中東アジア地区への輸入依存度が八割だからといって、日本の輸入量がそのまま八割減るわけでない。西松はそんなことを、しゃべった。
「でも石油輸入が大幅に減ることは確かでしょう。おそらく平常の四割、いやそれ以下になる」
寺木は広い額に縦じわを寄せて苛立たし気にいった。
メジャーが日本を優遇したとしても、中東石油の輸出が止まるのだから、限度があることは自明の理だった。
「そうだな、やっぱり三割ぐらいの消費節減はやらんといかんだろう」
力なくそういって、黒沢は目を閉じた。
(一)石油消費の三割削減を目途とした第二次石油消費節減を来年一月一日から実施する
(一)来年度予算編成作業は、暫時延期する
(一)第二次石油消費節減の実施により、甚大な被害を被る分野を救済するための補正予算の編成に、直ちに着手する
翌十二月十四日の閣議は、以上の三つを決定した。
閣議決定後、総理大臣は、とくにテレビ・ラジオを通じて、全国民に呼びかけた。
「いま、わが国は大きな危機に直面しています。このことを私は、否定するつもりも隠すつもりもありません。しかしこれは、国民の協力によって十分に克服し得るものだ、と考えております」
総理は細い目で、テレビカメラを見据えたまま、切り出した。
「しかしながら、今次の戦乱による中東の石油施設が被った被害は無視できるものではありません。このため今後当分の間、世界の石油需給はかなり逼迫したものとなると見られるので、わが国としても一層きびしい石油消費節減を実施せざるを得ないと考えます」
総理は今後の対策にふれた。
「この石油危機によって、一部の人びとだけが犠牲になることのないよう、ましてや一部の者がこの危機を利用して暴利をむさぼることを許さぬよう、最善の手をつくすつもりなので、国民の皆さんは平静を保ち、共に等しく苦難を分かち合って欲しい。……」
総理大臣は、驚くほどの率直さで、危機を認め、隠すことなく事実を語り、対策の概要を述べた。しかし、国民の中には必ずしもそうは受け取らない者も少なくなかった。政治家や政府の発言には、何がしかの裏がある、と考える習性が日本人の間には広まっている。そのため多くの人びとは、総理の述べた以上の危機が日本に迫っているに違いない、と考えたし、政府の対策は約束通りには実行されないか、されてもうまくはいかないだろう、とみた。野党の政治家や進歩的文化人たちは、現内閣ではどうせ大企業の横暴は防げず、弱い大衆が大損をするのは明らかだ、とこきおろした。
この日の午後から、大衆の物資買い溜めと企業の原材料買い急ぎは、かつてないほどに猛烈なものとなった。