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日期:2019-03-22 22:54  点击:244
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 十二月はじめ一旦下火になりかけた買い溜めの動きは、月半ば頃から再び猛烈な勢いで始まった。中東戦争の拡大で不安が増大したところへ、史上最高という多額の年末ボーナスが出回ったことも不幸だった。
 通産省に集まった統計数値では、十二月中旬の十日間で、全国百貨店売り上げが前年同期の二・一倍、主要スーパーマーケットのそれは、二・八倍に達した。食料品、衣料品、日用雑貨の販売高は、前年同期の三倍以上、家具、寝具、電気製品などの耐久消費財も二倍近くに達した。貴金属や宝石などは財産保全のために買われ、前年同期を五割も上回る売り上げになった。しかも、街の様子からみて、二十日以後の数字ははるかに大きなものになっていることは確実だった。
 すでにいくつかの商品が、著しい品不足に陥っていた。政府は中東大戦勃発と同時に、メーカーや問屋の手持ち在庫を調査し、早手回しに主要商品の標準価格を定め、売り惜しみと便乗値上げを防止しようとしたが、その効果には限度があった。メーカーや問屋の在庫は底をつきはじめていたのだ。一般消費者だけでなく、小売店も商品の仕入れを急いでいたし、企業も原材料・燃料の買い付けに血道を上げた。
 石油製品ももちろん例外ではなかった。この日の午後、エネルギー庁が調べたところでは、十二月一日から二十日までの出荷量は、前年同期に比べ、ガソリン一六%、軽油二七%、重油九%、プロパンガス一〇%それぞれ増加していた。とくに家庭用暖房の消費が多い灯油は五七%も前年を上回った。この増加率は、食料品や衣料・日用雑貨に比べれば大きな数字とはいえなかったが、すでに十二月十一日から一〇%の消費節減を始めていたのだから、エネルギー庁は青くなった。
 日本に入って来る石油の量は、まだ平常ペースを保っていた。中東戦争拡大以前にアラビア湾を出航したタンカーが入港していたからだ。それでも、出荷量増加のために、備蓄石油はかなり減りだし、十一月はじめに年平均消費量の六十五・七日分あったものが十二月二十日には、五十六・三日分になった。とくに、通産大臣が、九十日分の備蓄があると大見得を切った灯油は、二十日現在、製品・未精製を合わせて六十四日分に落ち込んでいた。
 この調子では、年末には五十五日分を大きく割り込むことは確実だった。
「メーカーや問屋の売り惜しみを厳禁して、無制限に出荷させたのがかえってまずかったようだ」
 黒沢長官は、くやんだ。
「石油類は容器に限界があるからそう買い溜めできんと思ったのは、甘かったですね」
 と、西松石油部長もうなずいた。
 最初、消費者は争って灯油罐や合成樹脂の石油容器を買った。このため灯油より前にこの二つがなくなった。そうすると、多くの人が、食用油の空罐や酒ビン、さらにはゴミ捨て用のバケツにまで油をつめた。工場や運送業者は、もっと大仕掛けだった。彼らは、石油消費節減実施までに一滴でも多くの軽油や重油を買い込もうと、古いドラム罐はもちろん、廃棄したボイラー罐や捨てられた古自動車の燃料タンクまで動員した。
 十一月下旬中東大戦勃発と同時に起こった株式大暴落と外国為替市場の混乱は、その後最悪の事態を回避できた。証券市場は四日間休んだ後再開され、様変わりの安値ではあったが一応平静さを取り戻した。一週間の長期閉鎖を経験した外国為替市場も、短期資金の引出限定額を定めることが国際的に合意されて、金融大恐慌だけは避けられた。
 しかし、ホルムス海峡封鎖後は、事情は一変した。
 十二月十四日朝から、生活必需品の買い溜めを急ぐ一般市民が預金を引き出しに、銀行や信用金庫へ押しかけた。ほとんどの人が、会社から払い込まれたばかりの年末ボーナスの全額をすぐ引き出した。定期預金の解約も多かった。企業や商店も原材料購入や仕入れのために預金引き出しを急いだ。当然、企業や商店に入った現金の金融機関への還流も著しく遅くなった。
 このため銀行は、現金不足に陥り、お札を借り出しに日本銀行に駆けつけた。当初、大蔵省と日銀は、物価急騰を抑えるために、きびしい金融引き締め方針をとったが、取り付け騒ぎが起こりそうになると、もうそんなことはいっておられず、預金引き出しに応じるための貸し出しだけは無制限に行うほかなかった。
 だが大蔵省・日銀は、一般貸し出しや手形割引は徹底的に締め、いくらかでも過剰流動性を抑制しようと試みた。このため、金融機関も、企業への貸し出しや商業手形の割引を抑制しなければならなかった。それは必然的に、一般企業の金繰りに大打撃を与えた。約束されていた融資を急に断わられたり、手形の割引を拒否されるケースも続出し、あわてて街の金融業者へ駆け込む企業も多かった。もちろん、そこでは金利は著しく急騰していた。最優良企業の手形ですら、日歩二十銭、年利七割三分ぐらいというのはざらだった。それでも、今日の決済に窮する会社や、すぐにも四、五割値上がりしそうな商品を仕入れようとする商店には、大した問題とは思えなかった。
 証券市場では、資金繰りに窮した企業も、預金引き出しに応じねばならない金融機関も、買い溜めしようとする個人も、争って株や債券を売った。下落を続けていた株式相場は、ホルムス海峡封鎖が伝えられた翌日の十四日に、あの十一月二十日に匹敵する崩落を演じ、十九日と二十三日にも同じ程度の大暴落に見舞われた。東京証券取引所ダウ平均株価は、一ヵ月余りの間に、五〇%強の下げとなった。これは、一ヵ月間の下げ幅としては、一九二九年秋のニューヨーク株式市場暴落を上回る史上最大の暴落記録である。
 普段は安定している債券相場も、この金融逼迫と金利高騰によって、常識はずれの下落を示した。つい数ヵ月前の金融緩和期には、額面(百円)近い値を付けていた七分利付電電公社債が、連日ストップ安だった。それでも買い手は全くなく、裏取引では五十円台になり、金融機関間の買い戻し条件付き短期売買では、五十円をさえ下回っているといわれた。
 十二月二十六日、突如、大証券X社の危機説が流れた。不幸にもそれは、事実だった。急激な株式・債券の大暴落に加えて、殺到する投資信託の解約のために、資金繰りがつかなくなったのである。
 この日の午後、大蔵省と日本銀行の幹部は長い会議のあとで、X証券の救済、とくに大衆の投資信託の現価解約保証を決定した。この措置は、金融機関、なかんずく大衆預金の安全性を証明するものであったはずである。だが、一般大衆の多くは、そうは受け取らなかった。むしろ、証券会社や金融機関の危険な状況が明白になった、と感じた。
 翌日から、激しい投資信託の解約が始まった。この年の証券取引の最後の二日間、十二月二十七日と二十八日には、投資信託の解約を求める人びとの列が、証券会社を取り囲んだ。証券会社の社員は解約を思いとどまらせようと必死に説得したが、それはかえって、客の不安をつのらせるだけだった。一部の店では店員と顧客の間で激しい口論が起こり、暴力沙汰さえあった。
 解約に応じるために投資信託は株や債券を売りに出した。政府は、大量の債券を日銀に買い取らせたが、株式と債券はこの二日間で再び大きく暴落した。
 恐慌状態は、すぐ金融界に移った。
 政府は、大衆預金は保証すると、懸命にPRし、新聞・テレビもそれを報じた。だが銀行預金は、金融機関に対する不信ばかりでなく、通貨価値の不安と手元に現金を持っていたいという大衆心理とによっても、おびやかされていた。このため、二十九日、早朝から金融機関の店頭に、預金者の列が出来た。普通預金や当座預金ばかりでなく、積立貯金や定期預金もどんどん解約された。現金を求めて集まった群衆の中では、誰もが冷静さを失っていた。
 中東戦争勃発以後四十日間に、日銀券発行高は、四兆六千億円増加し、十三兆八千億円に達していた。
 一方、企業の資金繰りは、圧迫されたままだった。一般貸し出し、手形割引が締められたうえ、手持ち有価証券の暴落が痛かった。十一月末から十二月にかけて、大量の原材料や商品を買い込んだ会社は、その支払いに苦しんだ。そのうえ十二月後半には、商品売買の手形取引が高金利と取引ルートの変化によって拒否されるようになったため、多くの中小企業が行き詰まった。それは、当然、手形取引をますますむずかしくした。企業間信用という手品で、膨れ上がっていた日本経済は、物凄いスピードでその膨張部分を吐き出し、穴のあいた風船のようにしぼみ出した。そして、多くの企業が吐き出す風に吹かれるように倒れた。
 十二月、倒産企業数は二千八百件に達し、その負債総額は六千億円に上った。

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