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「やっとこれだけ出来ました」
大晦日の午後、鬼登沙和子が、エネルギー庁に姿を見せ、大きな風呂敷包みを小宮の机の上に置いた。
包みの中に「石油消費五〇%節減(私案)」と「同参考資料」と表題のついた、二つの綴りがあった。どちらも半紙百数十枚もありそうな大部なものであった。
「悪いけどいまはそれどころじゃないんです。目下、補正予算の詰めの最中で……」
実際、あと数時間で、補正予算の計数整理を終えねばならないのに、まだ諦め切れない様子の陳情団や業界の連中が、部屋に出入りしていた。
「でもすぐこれが要りますよ。読んでいただけばわかります」
そういって沙和子は、風呂敷包みを書類の山の上に置いた。
〈二六%節減でも大騒ぎなのに〉
考えただけで小宮の心は重かった。
先日沙和子のいった、エネルギー削減率はその率の二・五乗から三・五乗の影響を与える、という推定が正しいとすれば、五〇%節減は、いま実施しようとしている第二次石油消費節減の五倍半から十一倍ぐらいの影響をもたらすわけだ。こうした心配を、小宮が口にすると、沙和子は冷やかに笑った。
「いえ、もっともっと大きいでしょう。こんどの第二次消費節減では、予定の二六%の節約にはならないと思います。エネルギー庁の計算には反動効果が計上されてないからです」
一つの石油消費を抑えると、代替消費が増加することがある。その点の考慮が不足だ、と沙和子はいうのだ。
「それより小宮さん、何か買って来て上げようか」
沙和子は暫く間をおいてから、そういった。
「ありがたい、ぜひ頼みますよ」
小宮は、突然の女らしい気遣いにとまどいながら、封の切っていないボーナス袋を渡した。彼は、明日からの正月休み中の食べ物も買っていなかった。その暇さえなかったからだ。
鬼登沙和子は、夜九時頃、三つ四つ紙袋をかかえて戻って来た。
「街は大変よ、機動隊が商店街に並んでるわ」
乱闘服にジュラルミンの盾を持った機動隊が全都の商店街に配置されているのだ。
「食料品も日用品も一人何個までと決められてるの。店を渡り歩いて買い溜めするのを防ぐため、買物包みを持ってる人には売らないのよ」
彼女は、一回の買い物ごとにその包みを駅のコインロッカーに入れて、新橋から神田、上野、浅草まで回って来たという。
だが、買い物の量は多くはなかった。インスタントラーメンと魚肉の罐詰がそれぞれ二十ほど、ハム、ソーセージが一本ずつ、ビスケットの箱が三つにミルク罐が一つ、それにパン類がいくらかと角砂糖と正月料理の折詰が二つ、一キロワット級の電熱器が一つ。それでも二十枚近いレシートがついているのは、別々の店で少しずつ買ったためだろう。そしてレシートの合計は、四万円近くになっていた。
「値上がりしてるんだなあ」
この一ヵ月、買物に縁のなかった小宮は、思わずいった。
政府の標準価格は、標準価格品の売り切れで有名無実になっていた。沙和子が買い集めて来た商品も、ラーメンやミルクのほかは、みんな標準価格品ではなかった。角砂糖は結婚式引出物に使うようなものだったし、ハム・ソーセージは高級贈答品風のものだった。パンも�特製品�のラベルがはってあった。
「でも物価はもっと上がりますよ。そうでないと、日本全体の需給バランスが保てないから」
沙和子は冷徹な学者に戻って、いった。
石油供給が五〇%減になれば、生産はそれ以下に落ちる。それをどう配分しようと、所詮は国民生活を大幅にダウンさせなければ均衡が保てない。賃金を数分の一にでもしない限り、物価が数倍上がらねば、通貨と物資がバランスしないのだ。
そのことは、小宮もよくわかっている。だがそれを目のあたりに見せつけられるのは耐え難かった。
「みんなえらくご苦労でした」
黒沢長官は、黒ずんだ顔に、精一杯の笑いを作っていた。
補正予算の整理も終わり、年内の仕事が終了したのは、夜の十時だった。最後まで残っていた二十数人は、長官室に集まって残り物のビールを乾した。
毎年、中央官庁の年末はこうなのだ。来年度予算の折衝があるため、あわただしい。だが大抵の年は三十日の夜に終わるが、今日は一日遅れの大晦日になった。そして、いま終了したのは来年度予算ではなく、今年度これから三ヵ月間に使う補正予算であった。しかし例年との最大の違いは、これで仕事が終わったわけでも、一段落ついたわけでもないことだった。
「明日の元旦はまあゆっくり休もう。二日の午後からまた仕事だ」
寺木石油第一課長がいった。
「いよいよ大変だなあ……」
誰かが溜息をついた。
十五分か二十分の後、一同は無線タクシーを呼び集めて帰りはじめた。タクシーは相当に不足しているのだが、「エネルギー庁」の名には多少の権威があるのか、必要数はすぐ集まって来た。
「ホテルまで送って下さる」
小宮が車に乗った時、駆け寄って来た鬼登沙和子がいった。何台もある車の中から、沙和子が自分の車を選んだことが小宮はうれしかった。そして、
〈あの晩と同じだ〉
とも思った。「油減調査」のあとの十月の夜を思い出したのだ。
車の中で、沙和子は何もいわなかった。通産省から紀尾井町のホテルまでの道は短い。すでに車の通りも減っているので、二人を乗せたタクシーはまたたく間に、この短い距離を走り過ぎてしまった。
ホテルの正面に着いた時、沙和子は黙って車の外に出た。小宮は何かいわなければと思った。
「これ少しもって行ったら……」
小宮は、沙和子が買って来てくれた食料品の紙袋を突き出した。
ホテルの明るい光を背中にした沙和子の顔が、少しほころんだように見えた。
「結構です、大阪へ帰ればありますから」
声は、事務的で冷たかった。
「帰る……」
「明日、多分、午前中に……」
小宮はうかつにも、沙和子がそう早く大阪へ帰るとは思っていなかった。だが、彼女と一緒に来た雑賀正一は無理がたたって三日ほど前に入院したし、今田部長も昨日大阪に帰っている。そして、彼女がなすべき仕事は、今日の資料提出ですべて終わっているのだ。
小宮は車から降りた。話しておかねばならないこと、聞いておかねばならぬことが、いっぱいあるような気がして焦った。しかし、実際には何一つ適当な言葉は出なかった。二人は正面から向き合った。沙和子は小宮の顔に心の中まで見透すような視線を当てながら、つぶやくようにいった。
「失望は早くした方が傷浅く済むものよ。日本人みんなにとっても……」
沙和子は、コートの裾をひるがえし、回転ドアの中に消えた。小宮は、彼女が呑み込んだ語尾に縛られたように立ち尽していた。